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2008年10月

2008年10月27日 (月)

寝る態勢で結婚観が分かるらしいよ

さっき「HEY×3」で心理テストをやってました。

なんでも、寝るときの態勢で結婚観が分かるというのです。

 

・右半身を下にして寝る

・左半身を下にして寝る

・仰向け

・うつ伏せ

 

この4つがあって、上からこんな感じの解説でした。

 

・右半身下:結婚願望はあるが、ただ寂しいという理由によるもの。相手を選ぶ際は慎重に。結婚している場合は、家庭で寂しい思いをしている。

・左半身下:対話と理解を求めているタイプで、一番結婚に向いている。

・仰向け:仕事に燃えており、結婚どころではない。家庭を顧みずに仕事をするタイプ。

・うつ伏せ:自分の世界に入ってしまうため結婚に向いていない。秘密の趣味を邪魔されたくない。

 

ちなみに僕は仰向けで寝る人です。

僕って仕事に燃える人なんでしょうか?笑

今のところかなり淡々とやってますが・・・。

 

またまたちなみにですが、僕は小さい頃から仰向けで寝ていました。

幼少の頃から仕事に燃える片鱗があったってことでしょうか?笑

それとも結婚とか恋愛以外の何かに燃えるタイプってことか・・・・・・。

 

まぁいずれにせよ心理テストなんて適当なもんですね。

せめてそう分析した根拠くらい教えて欲しいものです。

その信用性はどうでもいいから。

 

でも今日はちょっと左半身を下にして寝てみようかな(笑)

 

ではまた。

 

 

 

 

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2008年10月25日 (土)

この世は言ったもん勝ち。でもそうじゃないときもある。

僕はずっと前から「忙しい」とか「努力してる」とか、こういう発言をする人になるたくないと思い続けています。

こう思うようになったきっかけは、そう言っている人を見て格好悪いと思ったからです。

ところが世の中には頭の悪い人がいるもので、「忙しい忙しい」と言っている人をみて、「あ~、あの人はあんなに忙しく頑張っている」とか、「努力しました」と言う人をみて、「努力したんだね。よく頑張った」なんて思う人がいるようです。

だから忙しいアピールをする人が後を断たないし、努力という言葉がただの飾りでしかなくなっていってるのです。

 

僕の考えでは、「忙しい」という言葉は自分の精神状態を指す言葉です。

決して仕事量などを指す言葉ではないと思っています。

だっていくら仕事が多くても、その人が精神的に健康で、心に余裕がある状態であればその状況を「忙しい」と思わないと思うからです。

「忙」という言葉は「心」を「亡」と書きますが、本当にその通りなのだと思います。

だから「忙しい」を連発する人は、自分のキャパシティーの小ささを周囲に知らしめていることになるのです。

(もちろん忙しいアピールをする人は、キャパシティーの限界まで仕事をしていて凄いだろという意味を込めているのだろうが・・・)

あ、もちろん、本当に限界で、弱音という意味で「忙しい」を言っている人もいます。

まぁいずれにせよ、忙しいアピールとは実は評価されるようなことではなく、その人の底が見えてしまっているという悲しいお知らせに過ぎないと思います。

 

また、「努力」という言葉についても気をつけなければなりません。

努力努力努力・・・。

実にいい響きですね。

努力する人は美しいですね。生きてる感じがしますね。

でも、だから何だというのでしょうか。

努力をすれば偉いのでしょうか。逆に、努力をしない人は駄目なのでしょうか。

僕はそうは思いません。

努力とはあくまで手段であって、それ自体に意味のあるものではないと思うからです。(かなり誤解を招きそうな発言ですが・・・)

ようは、目的が達成できるならば努力は必要ないし、努力すれば達成できるならするべきという、ただそれだけのことです。

努力したからいいとかいう話は全くそこにはない。

まぁもちろん、何もせずに失敗した人と、努力した人だと、どうしても後者を評価したくなってしまいます。

それは僕も分かります。

でも本当はそれはすべきではない。

なぜなら、何もせずに失敗したと思われていたあの人だって、実は努力していた可能性があるからです。

努力とは目に見えません。

努力してるアピールがうまい人もこの世には存在していますが、努力ってのは基本的に個人活動であるので、他人に伝わるものではそもそもないのです。(だからこそ伝えたくなるのですが)

だから一見努力してなさそうな人だって、実は努力してたなんてことはザラにあります。

結局他人の努力を見ることはできないのだとしたら、努力そのものを評価するなんてナンセンスだと思うのです。

努力のあるなしを別にして、どのような結果を出したかを評価しないといけないのです。

努力の評価なんて、友人関係レベルで話してればいいんです。

「あの子頑張ってるよね~」とか、そんなもんです。

 

僕がなぜこんなことを言うかというとですね、僕は忙しいアピールも努力アピールも苦手だからです。

「最近忙しいの?」の質問には「別に」とか、「いや、結構暇」とか答えてしまいますし、「頑張ってる?」の問いに「はい!頑張ってます!」なんて恥ずかしくて言えないんです。

だから僕みたいな人がもし不当な評価を受けるようなら嫌だなーとは内心ずっと思っていました。

でもそんなことはありませんでした。

ちゃんと見ている人は見ていて、評価してくれていることが分かったんです。

まぁちょっと(僕への評価が)甘いんじゃないかとも思ったのですが、でも素直に嬉しかったんですね。

見てる人は見てます。

だから、周囲に変なアピール上手がいても気にする事無く、自分の哲学に従っていいのだと思います。

言ったもん勝ちじゃないときだってあるのです!!

 

僕はこれからも自分のスタイル貫きます。

忙しいアピール、努力アピール・・・クソ食らえ!!!!!!

 

ではまた。

 

 

 

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2008年10月21日 (火)

原子の大きさに対して僕らはなんて大きいんだ

物質の構成単位である原子(ちなみに最小単位ではない)の大きさはおよそ1オングストローム。

※オングストロームとは、1メートルの100億分の1。

それに対して人間の大きさは身長1~2m、体重30~200kgといったところ。

 

僕らはなんでこんなサイズでなければならないのでしょう。

僕が先日読み終わった本、「生物と無生物の間」(福岡伸一、2008)ではここから生物学的な、より専門的な話に入っていきました。

 

でも僕はここで立ち止まり、もっと簡単な、誰にでも考えることができる領域に入っていくことにしました。

原子が何なのか僕にはよく分かりませんが、僕たち人間を構成する単位であることに間違いはありません。

そしてもし、僕たち人間の存在する目的が「ただ存在すること」であれば、僕達は原子をこんなにたくさん集めて巨大になる必要はなく、ただ原子のままいればいいはず。

でも現実に僕らはそうではない。

じゃあ生物であるためか。

原子が生物かどうかは分からないし、そもそも生物って何だって感じですが、そこは置いといて、人間の存在する目的が「生物として存在する」であれば、原子は集まって何らかの組織を構成し、生物とならなければならなかったのでしょう。

でも、ただ生物として存在するだけでもこんな巨大である必要はない。微生物の方がよっぽど効率がいいし、生存率も高い気がする。

 

ここまできて僕は面倒くさくなりました。

分かるわけがないと。

何で人間がこんなにも巨大でこんな形をしているのかなんて。

だから僕は、ある意味では神様の存在を認めようと思うのです。

まぁ別に神様の存在がなくてもいいのですが、人間はこうなるべくしてなったというか、そういう運命だったというか・・・。

つまり、人間の存在は否定のしようがないということ。

僕はそこに行き着きました。

ただ生存・子孫繁栄のためだったらこんな面倒な形になる必要はなかったであろう僕たちが、今こうであることは、もうどう頑張っても否定できない。

だからもう、神様的な存在が作ったというのがいいんです。

そう考えると人間そのものを認められるようになってきます。

こんな奇妙な生体が何をしようともう驚かないぞという風に。

環境破壊も戦争も別に普通。何なら起るべくして起っている問題なのです。

もちろん、だから放置しておけということではなく、それらを、当然人間がするであろうことだったと捉えることが大事なんだと思うのです。

よく僕は他人を反面教師的に見て「あの人はなんであんなことをするのだろう?」とか思ってしまいますが、もともと意味の分からない生物である人間なのだから、その行動だって意味分からないものでいいんですよね。

だからね、一旦すべて受け入れてしまえばいいんです。

気に入らないこともあるけど、それも受け入れる。その上で批判をするってのがいいと思います。

そうすれば人間みんな滅べばいいなんて思わず、より現実的な問題解決ができる気がします。

 

原子の大きさと人間の大きさを比較し、人間の否定できない存在を知る。

そして人間を認める。

人間の行動を認める。

批判する。

 

自分でも何を書いてんだかよく分からなくなってきましたが、要するに人間そもそもを否定する場合、生物学の領域から否定できなければ駄目だってことで、それは無理だろうから、完全に人間を否定して生きるのではなく、受け入れていこうってことで、これは僕が僕自身にただ言い聞かせたくて書いただけのことなのです。

だから意味分からなくてもいいんです。

僕が分かってれば(笑)

 

でも原子の大きさを想像すると、人間ってのはもはや宇宙だよね。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

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2008年10月19日 (日)

反省

最近僕はあろうことか「自分は今仕事をたくさん任されていて忙しい」などと思っていました。

忙しいと思ったら負けだと思っていた僕がです。

もう最悪です。

しかもそれを他人に対して喋っていた気がしています。

「僕は今忙しい」と。

愚の骨頂です。

僕のやっている仕事なんて、別に大したことではないのに。

前よりもちょっと量が増えただけなのに。

もっと仕事をしている人はたくさんいるのに。

そんなことを忘れていたなんて、本当に情けない限りです。

 

調子に乗りやすいタチであることは知っていたけど、自分がこんなにも愚か者だったとは・・・です。

 

僕は決して忙しくないし、今の仕事だって大した残業なしでこなせる。

こう気持ちを切り替えて月曜日からは出社したいと思います。

 

FUCK俺!!

 

ではまた。

 

 

 

 

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2008年10月18日 (土)

テキーラ!!

昨日は僕が大好きなデザイナーさんと取引先の会社の営業さん、会社の上司・先輩と飲みました。

僕が大好きな西荻窪で。

あの街は本当にいいです!これぞ中央線!という感じで。

 

昨日はメキシコ料理のお店に行きました。

料理もお酒も美味しく、また行きたいと思える店でした。

そこで僕は初めてテキーラというものを飲みました。

僕はあまりお酒が強い方ではないので、たぶん無理だろうなーと思いながらも、昨日は酔っ払う気満々だったので頼んでみることに。

一口飲んでみると、案外いける!

しかもちょっと美味しいかも!というくらい。

結局テキーラは2,3杯飲みました。

ゴールドとホワイトの2種類があって、ホワイトはちょっと飲みにくかったです。ゴールドがお勧め。

 

そんなことでいい感じで酔っ払い、おそらくまた失礼な発言などもして(たぶん)、無事帰って来れました。

ただ、家に帰ったところまでは覚えているのですが、家に入ってからの記憶が全然ありません。

今朝も起きたら頭が重い。

やはりテキーラ。飲みやすくてもテキーラはテキーラだったのです。

でもまた今度のんでみよっと。 

テキーラ!

 

ではまた。

 

 

 

 

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2008年10月14日 (火)

NEW FOUND GLORYは何て最高なんだ

最近の僕は疲れています。

休日は比較的元気なのですが、とにかく平日で疲れきります。

なんつーか、今の仕事こなせるか不安にすらなってきました。

 

でもそんな時でも音楽があるから何とかなってる気がします。

会社出た瞬間イヤホンを耳にし、大好きなパンクロックを堪能するわけです。

駅に行けば同僚に会うこともあるけど、気付かない振りすらします。

それほど帰りの音楽タイムは重要なのです。

 

特に好きなのがNEW FOUND GLORY(以下NFG)というバンドです。

ポップなパンクで、何というか全部いいんですよ。

メロディもいいし、ボーカルの声もいいし、楽器のことはよく分からないけどたぶんそれもいい。

特にお気に入りの曲はこれ。

↓my friends over you

 

 

どうですか!?最高でしょう!

会社出ていきなりこれが最初の曲として流れてきたらいきなりテンション上がっちゃいますよ。

 

でもNFGはバラードもいいんです。

PVは見つからなかったのですが、聞いてみてください。

↓on my mind

 

 

いいでしょ。バラードといえばIt's not your foultってのもあるんだけど、あまりyoutubeばかり貼り付けても仕方ないのでやめときます。

 

でも最後にもう1曲だけ!

NFGはカバーもいいんです!

この名曲がこう生まれ変わりました。

↓kiss me

 

 

僕は割りと切り替えが早い方だと自負をしていますが、結局はこういうものたちのおかげなのだと思います。

僕の精神力のせいではなく、僕の周りにあるものたちが素晴らしいからすぐに僕は回復することができる。

だって僕は、本当に心から好きと思えるものしか置いておかないんだからね!

 

みんなだって疲れている時や傷付いた時に、いわゆる癒し系の音楽なんて聞かずに、ただひたすらに自分が一番好きな音楽を聞けばいいんだ。

それが一番の癒しに決まってんだ。

癒し系だなんて、そんな万人に共通の癒しなんか簡単に見つかってたまるかってんだよ。

僕にとっての癒し系は間違いなくNEW FOUND GLORYです。

 

ではまた。

 

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2008年10月13日 (月)

「花よりもなほ」

今日は家でDVDを見て過ごしました。

「花よりもなほ」という邦画です。

 

江戸時代の舞台に、岡田准一演じる侍が、父の敵を討つまでの葛藤や人間関係を描いています。

忠臣蔵などに見られるように、肉親や恩師の敵を討ち、その後は桜のように潔く散ることに美意識をもっていた江戸時代の中で、「そんなことしなくていいんじゃない?」という言葉を投げかけていました。

現代においても戦争がなくなっておらず、9.11に見られるように、やられて黙っているよりも、“正々堂々とやり返す”ことを良しとされることはあります。(9.11の時のアメリカ国内では、報復と反戦の両方の意見があったようですが)

でも幸せってそんなんじゃないじゃんというわけです。

結局岡田准一演じる主人公は仇討ちを行なわず、むしろその仇とともに生きる選択をしました。

 

ここで僕が気に入った台詞を紹介します。

 

「桜が潔く散るのは、また来年咲くことを知ってるからじゃない?」

 

「憎しみを自分の中で変えたんです。クソを餅に変えたんです。」

 ※肥溜めのクソは畑の肥料になり、それがあるから正月に餅が食えるんだというやり取りを受けて。

 

特にクソを餅に変えるという言葉は面白いなーと思いました。

憎しみという、それだけではただの醜い感情でしかないものを、形を変えて生きる力にしようというのです。(復讐とかではなく、もっと実用的で平和的な何かに)

僕は憎しみやら怒りというのをストレートにしか表現できない人なので、こういう考え方ができて、実際にそう行動できる人は凄いなと思いました。

見習いたいものです。

 

こういう教訓を抜きにしても、音楽とかも良かったし、コメディ的な部分もあり、けっこう楽しめた映画でした。(途中若干眠かったけど笑)

是非一度ご覧アレ。

 

ではまた。

 

 

 

 

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2008年10月11日 (土)

個人情報保護って結局何のためなんだ?

ここ数年で、日本人の個人情報に対する認識はすごい変わってきていると思います。

企業が個人情報を流出させれば大ニュースとなり、膨大な被害が出ます。

ただその被害とは、流出してしまった個人情報のその人ではなく、流出させてしまった企業にです。

ただ流出させたという事実によって企業に被害をもたらすのです。個人情報流出によって誰かに迷惑をかけたとかがなくてもです。

 

一体個人情報を守ることにどれだけの意味があるのでしょうか。

なぜ人は自分の個人情報を守るのでしょうか。

個人情報を公開すると、一体どのようなデメリットがあるのでしょうか。

多くの人は、そんなこと考えることもなく、ただただ個人情報保護だと叫んでいるだけのように思えます。

 

以前見たテレビ番組では、下駄箱などに名前を書かない学校が紹介されていました。

きっとそんな学校では卒業アルバムには顔写真もなければ名前も載っていないのでしょうね。

 

なぜこんな社会になってしまったでしょう。

それはたぶんマスコミによる煽り報道が原因です。

本当は誰も個人情報が漏れることによるデメリットを実感していないんだけど、個人情報が流出したとマスコミが大々的に報道すればそれは大変なことなんだと思ってしまいます。

自分も、そして自分の周りにも個人情報が流出することで困った経験のある人は一人もいないんだけど、何か大変な気がしてしまう。

そしてマスコミに便乗して、個人情報保護を叫びだすのではないでしょうか。

 

個人情報保護にしばられた今の社会がいいとは到底思えません。

別に無理に個人情報を公開する必要はないと思いますが、こんなにも神経質になって個人情報を守る世の中はやはりどこか気持ち悪いと思ってしまいます。

何十年後にはお互いを今のネット世界のようなハンドルネームで呼び合い、誰も本名を知らない。顔を隠すマスクも欠かせないことでしょう。

そんなクソみたいな世の中へ向かっていってしまっているのでは?

もちろん言い過ぎであることは分かっていますが、ただ、個人情報保護法が施行されたことで、一体世の中にどんなメリットをもたらしたのか、そろそろ一度考えて見た方がいいと思うのです。

そして個人情報過保護法になっていないか、本当に見直してみてもいいと思います。

 

ではまた。

 

 

 

 

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2008年10月 7日 (火)

便座をすぐに温める愚か者との終りなき戦い

僕が今の会社に入社して1年と半年が経ちました。

この1年と半年間、色々なものと戦いました。

基本的に怒りを原動力とする僕は、入社以来色々なものに怒りを覚えてきましたが、その中でも僕が一番怒ってきたのは「便座の温かさ」です。

 

昨今の日本では、ウォシュレットというものがかなり普及しており、うちの会社のトイレにも全て設置されています。

そのウォシュレットの機能の一つに、便座を温める機能があります。

これは冬場など、カバーをかけないと便座が冷たくなりすぎてとても座れないという時に役に立つ機能です。本来冬だけに活躍する機能です。

ところが裕福な日本では、より快適なトイレ生活を求めて、別に座った瞬間に「ひゃっ!」っとしないにも関わらず、便座を温める人が増えています。

僕はここに怒りを覚えるのです。

不快を避けるための便座温め機能ならまだ分かる。

いわば、足の不自由な人がエスカレーターを使って上のフロアに上がるようなものです。(ちょっと違うか)

でも、「快適」を求める便座温め機能は絶対にいらないと思うのです。

節約するならここだろうと思うのです。

そこで僕は入社以来、この便座温め機能のスイッチを切り続けてきました。

夏のくそ暑い日に最高温度に設定されていた時は舌打ちなんぞもまじえながら。

ところが来る日も来る日も、便座温め機能はONに変えられていました。

何も考えていない人が己の快適さだけを求めて便座温め機能をONにするからです。

これではきりがありません。

そこで僕は作戦を変えることにしました。

「切る」のではなく、「弱める」作戦です。

ようは気付かれないように節約しようということです。

スイッチを切り続けることで、僕の思いを伝えようと思っていましたが、それが難しいようなので、もう便座温め機能を使いたい人には使わせる。

でもその温度をさり気なく下げるのです。

切ってしまうと、次使う人が極端に温度を上げることが考えられ、実際の節約効果としては逆効果だったかもしれない。

でもさり気なく下げれば、きっと温度が若干低いことには気付かないし、気付いても許容範囲だと思われるので、若干ではありますが節約に成功することができるのです。

大きな変化は望めませんが、現実的にはこの方法がいいと判断しました。

 

これは環境問題全体を考える上で重要なことだと思っております。

「地球に悪いものを全部なくそう」という思想には誰もついてきませんが、「あまり自分の生活に影響のない範囲で環境問題に取り組もう」なら共感してもらえることでしょう。

期待しうる最大効果は小さいものになってしまいますが、成果を残すのは後者なのです。残念ながら。

でも大事なのは目的であり、環境問題における目的とは地球環境を改善し、人間が住みよい地球にすることであるので、成果を残しやすい現実的な方法を選ぶ方がいいんだと思います。

 

僕も便座をすぐに温める愚か者と終りなき戦いを続けていたら、結局は何の成果も残せないなんてことになっていたのだと思います。

信念は大事ですが、現実も大事だということです。

 

ではまた。

 

 

 

 

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2008年10月 5日 (日)

「キングオブコント」は最悪な賞レースだ

10月5日20時現在、TBSで「キングオブコント」というM-1のコントバージョンのような番組が放送されてます。

今それを見ながらちょっと腹が立ってきたのでブログにその思いを書くことにしました。

まず最初に言わせてください。

 

 

このクソ番組がー!!!!!!!

 

 

何がクソって、出てくる芸人があまり面白くないってことと、そして何より審査員が準決勝で敗退した芸人ってことですよ。

まず負けた芸人に対して失礼のような気がするし、何より審査が公平のこの字も見えないってことです。

芸人が芸人を審査するってことは、同じ事務所などの利害関係が一致する人を有利にするし、後輩より先輩の点を高くすることは当たり前だと思います。

だって自分の後輩に優勝されたら悔しいでしょ。

 

いったい何の意図があってこんな審査方法にしているのか。

本当に疑問。

そして面白かったのに年功序列で負けた若手が気の毒。

予選B組のチョコレートプラネットなんか結構面白かったのに、その後のロバートと60点くらい差をつけられて負けました。(その後ロバートもバナナマンに僅差で敗退)

実際の面白さは人によって感じ方が様々だと思うので何とも言えませんが、B組1位のバナナマンは芸暦15年。A組の勝者はバッファロー五郎で、芸暦は20年だそうです。圧勝でした。

 

決勝はこれからですが、芸暦20年の勝ちなのではないでしょうか。

こう御期待。

 

ではまた。

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2008年10月 4日 (土)

客観的はあり得るのか

福田前首相の名言にこんなものがあります。

 

「私はね、自分を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんですよ」

 

僕も昔、同じようなことを思っていたことがあります。

僕は自分を客観的に見ることができていると。

でも今はそんなことは死んでも思いません。

なぜなら、自分を客観的に見ている自分も、やはり自分だからです。

それはつまり、どうしても主観を完全に除外できないということです。

そう思うようになったきっかけは、「ジャーナリズムの崩壊」(2008、上杉隆)でした。

先日の仙台一人旅行の最中に読んだ本です。

 

(前略)新聞が客観報道という便利な隠れ蓑を利用して、自らの立場を明確にしないことが問題なのではない。その実は偏向しているにもかかわらず、客観を装っているという点が問題なのである。客観を装った偏向報道ほど性質(たち)の悪いものはない。それはすなわち、読者を欺き、新聞自身をも騙していることに他ならないからだ。

 

これは報道とかジャーナリズムについての主張ではありますが、人間個々人にも当てはめることができると思いました。

僕達はよく自己分析というものをします。

特に大学3年生や4年生はよく耳にする言葉でしょう。

自分の得意なこと、不得意なこと、今までやってきたことを通じて何を得たとか、そういうものを洗い出して自分自身を分析することです。

そして福田前首相のように、私はこういう人物だと決めるわけです。

自己分析はとても大切な作業だとは思います。

でもそれはあくまで自分の意思決定のプロセスにのみあるべきであって、たとえば就職活動の面接などで相手を説得する材料としては使えないものだと思っています。

なぜなら、分析というには実に不正確・不確実だからです。

分析というくらいですから、本当は主観がないに越した事はありません。自分で自分を分析するのですから、どうしても主観は取り除けません。

(科学者は主観に基づいた仮説から実験を始めると聞いたことがありますが・・・)

だからその分析結果は実に不正確ですし、タチの悪いことに、僕達は自分を都合のいいように分析する傾向があるように思えます。

例えば、「今までで最も成長したなと思う経験は?」という問いに対して、今まで最も苦労した経験を答える人は多いのではないでしょうか。

苦行とか、「苦労は買ってでもしろ」という言葉もあるくらいなので、苦労したら成長するという考え方は一般的ではありますが、本当にそうなのでしょうか。

実はこういう思いがあってのことなのではないでしょうか。

「苦労したのだから成長していなければ報われない」

自己分析のすべてを否定する考えはありませんが、自己分析は実に怪しいと思います。

だから自己分析は、自分を客観的に分析しているわけではないということを知っていなければならないと思う次第です。

 

あと気をつけなければならないのが、人に何かを伝える時、それは誰かに友人を紹介するときでもいいし、お勧めのラーメン屋を紹介するときでもいいですが、そういった時でも完全に客観的な情報を伝えることはできないということです。

誰かに友人を紹介する時。頑張って客観的に紹介しようとしたとしましょう。

氏名・年齢・職業・性別・血液型など、自分の意思によって変えようがない情報だけを伝えたとしてもやはり主観的なものが入ってしまうのです。

それは、情報の取捨選択にです。

無数にある情報からどの情報を伝えようかという判断は主観によって行なわれていると思います。それは意識的にではないとは思いますが。

その友人に好意を持って欲しいと思って紹介する場合には、その友人が不利になるような情報は伝えないという選択をする可能性があるということです。

だからこのような場合でも完全には客観的ではないのだと思います。

 

僕はドキュメント映画が好きで、この本と「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」(2007、森達也)を読むまでは、ドキュメント映画で描かれていることは『今まで自分が知らなかった真実』だと思い込んでいました。

でも今はそうは思いません。

映画は表現です。

人間による表現です。

つまり、どんなに客観的に事実を伝えようとした映画であろうと、人間によって作られた表現である以上、主観は取り除けません。

ドキュメント映画とは、自分の主張のために都合よく事実を切り貼りした映画ということです。(決してドキュメント映画を批判する意見ではありません)

もしドキュメント映画監督が自分の作品を「客観的だ」とか言っているとしたら、その監督は実に胡散臭いということになります。

 

結局僕が何を言いたいかというとですね、客観的なんて意識する必要ないってことです。

誤解を恐れずに言うなら、常に主観的に物事を判断して、主観的な判断に基づいた意見を発信していいということなのです。

その代わり、死んでもその意見や自分のことを客観的だと言ってはなりません。

もし堂々と自分のことを客観的だと自己分析する人がいたら、その人の話は気をつけて聞いた方がいいです。うん。

 

一度、今まで客観的だと思っていたものを考え直してみるのもいいと思います。

 

ではまた。

 

 

 

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