« 立ち読みは深い | トップページ | 「キングオブコント」は最悪な賞レースだ »

2008年10月 4日 (土)

客観的はあり得るのか

福田前首相の名言にこんなものがあります。

 

「私はね、自分を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんですよ」

 

僕も昔、同じようなことを思っていたことがあります。

僕は自分を客観的に見ることができていると。

でも今はそんなことは死んでも思いません。

なぜなら、自分を客観的に見ている自分も、やはり自分だからです。

それはつまり、どうしても主観を完全に除外できないということです。

そう思うようになったきっかけは、「ジャーナリズムの崩壊」(2008、上杉隆)でした。

先日の仙台一人旅行の最中に読んだ本です。

 

(前略)新聞が客観報道という便利な隠れ蓑を利用して、自らの立場を明確にしないことが問題なのではない。その実は偏向しているにもかかわらず、客観を装っているという点が問題なのである。客観を装った偏向報道ほど性質(たち)の悪いものはない。それはすなわち、読者を欺き、新聞自身をも騙していることに他ならないからだ。

 

これは報道とかジャーナリズムについての主張ではありますが、人間個々人にも当てはめることができると思いました。

僕達はよく自己分析というものをします。

特に大学3年生や4年生はよく耳にする言葉でしょう。

自分の得意なこと、不得意なこと、今までやってきたことを通じて何を得たとか、そういうものを洗い出して自分自身を分析することです。

そして福田前首相のように、私はこういう人物だと決めるわけです。

自己分析はとても大切な作業だとは思います。

でもそれはあくまで自分の意思決定のプロセスにのみあるべきであって、たとえば就職活動の面接などで相手を説得する材料としては使えないものだと思っています。

なぜなら、分析というには実に不正確・不確実だからです。

分析というくらいですから、本当は主観がないに越した事はありません。自分で自分を分析するのですから、どうしても主観は取り除けません。

(科学者は主観に基づいた仮説から実験を始めると聞いたことがありますが・・・)

だからその分析結果は実に不正確ですし、タチの悪いことに、僕達は自分を都合のいいように分析する傾向があるように思えます。

例えば、「今までで最も成長したなと思う経験は?」という問いに対して、今まで最も苦労した経験を答える人は多いのではないでしょうか。

苦行とか、「苦労は買ってでもしろ」という言葉もあるくらいなので、苦労したら成長するという考え方は一般的ではありますが、本当にそうなのでしょうか。

実はこういう思いがあってのことなのではないでしょうか。

「苦労したのだから成長していなければ報われない」

自己分析のすべてを否定する考えはありませんが、自己分析は実に怪しいと思います。

だから自己分析は、自分を客観的に分析しているわけではないということを知っていなければならないと思う次第です。

 

あと気をつけなければならないのが、人に何かを伝える時、それは誰かに友人を紹介するときでもいいし、お勧めのラーメン屋を紹介するときでもいいですが、そういった時でも完全に客観的な情報を伝えることはできないということです。

誰かに友人を紹介する時。頑張って客観的に紹介しようとしたとしましょう。

氏名・年齢・職業・性別・血液型など、自分の意思によって変えようがない情報だけを伝えたとしてもやはり主観的なものが入ってしまうのです。

それは、情報の取捨選択にです。

無数にある情報からどの情報を伝えようかという判断は主観によって行なわれていると思います。それは意識的にではないとは思いますが。

その友人に好意を持って欲しいと思って紹介する場合には、その友人が不利になるような情報は伝えないという選択をする可能性があるということです。

だからこのような場合でも完全には客観的ではないのだと思います。

 

僕はドキュメント映画が好きで、この本と「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」(2007、森達也)を読むまでは、ドキュメント映画で描かれていることは『今まで自分が知らなかった真実』だと思い込んでいました。

でも今はそうは思いません。

映画は表現です。

人間による表現です。

つまり、どんなに客観的に事実を伝えようとした映画であろうと、人間によって作られた表現である以上、主観は取り除けません。

ドキュメント映画とは、自分の主張のために都合よく事実を切り貼りした映画ということです。(決してドキュメント映画を批判する意見ではありません)

もしドキュメント映画監督が自分の作品を「客観的だ」とか言っているとしたら、その監督は実に胡散臭いということになります。

 

結局僕が何を言いたいかというとですね、客観的なんて意識する必要ないってことです。

誤解を恐れずに言うなら、常に主観的に物事を判断して、主観的な判断に基づいた意見を発信していいということなのです。

その代わり、死んでもその意見や自分のことを客観的だと言ってはなりません。

もし堂々と自分のことを客観的だと自己分析する人がいたら、その人の話は気をつけて聞いた方がいいです。うん。

 

一度、今まで客観的だと思っていたものを考え直してみるのもいいと思います。

 

ではまた。

 

 

 

|

« 立ち読みは深い | トップページ | 「キングオブコント」は最悪な賞レースだ »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/146160/24249470

この記事へのトラックバック一覧です: 客観的はあり得るのか:

« 立ち読みは深い | トップページ | 「キングオブコント」は最悪な賞レースだ »