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2009年2月 9日 (月)

臓器移植に反対することを決めた朝

Photo 今日は朝から会社へ行き17時半まで働いて帰ってきた。寄り道といえばセブンイレブンに行ってジャンプを立ち読みしたくらいだった。

 

今朝テレビでニュースを見ていて、とても怖い表現を耳にした。確か日本テレビの番組だったと思う。

それは臓器移植に関するニュースだった。

女性アナウンサーが言った。世界的に“臓器不足”が進んでいる、と。

ニュースはそのまましれっと進んでいったが、僕はこの「臓器不足」という言葉に恐怖した。とても恐ろしい表現だと思った。まるで倉庫の在庫が足りなくなったかのように、人間の臓器を表現したからだ。

 

僕がこの表現から想像したのは、やはり臓器売買だった。

「足りない」という状態は需要と供給を比べて需要が多いことであり、それはつまり、臓器市場があることを意味している。

もちろん売買は禁止されているんだろうけど、需要が勝っているんだから売買が発生するのは当然だ。この世は資本主義なのだから。タダであげるよりも、金で買ってもらう方がそりゃ優遇されるんだろう。

嫌な世界だ。踏み込んではいけない領域というのは、資本主義世界にはないんだ。

 

でもその世界を望んでいるのは僕たち自身だ。

1つの臓器がダメになり、移植手術を受けなければ死ぬとなったときに、誰かの臓器をもらえばいいという発想になっていることが根本の原因だ。

本来ならばもう死を覚悟しなければならない時点だ。それを受け入れなければならないはずだ、本来ならば。

でも僕達は医療を進歩させ、臓器移植を可能にし、それを広く世界に知らせた。

だから人は、臓器移植をすれば助かる、と思っている。

これは実に難しい問題だ。

確かに、臓器移植をすることで助かる命があるなら移植はいいのかもしれない。遺体をただ燃やすよりは、移植用に臓器だけでも取り出して活用(この表現がいいのかどうかは分からない)した方がいいとも思う。

でも、それによって失うものもあるんじゃないか。

臓器移植前提で考えることで、人は人の臓器を軽視し、さらには人の命を軽視することにつながらないだろうか。あー肝臓ダメになっちゃったよ、新しい肝臓入れなきゃな、ってな感じだ。

 

「臓器不足」

 

この表現はもうすでに僕たちがその段階まできていることを意味しているのかもしれない。

 

この意識はいとも簡単に臓器売買を肯定すると思う。

生に執着し、金に物を言わせて何でも買いあさる愚者は、きっと臓器も買い漁ると思う。貧しくてどうにも立ち行かなくなった弱者は進んで臓器を売るかもしれない。もちろん無理矢理臓器を取られる者もいるんだろう。

弱肉強食という言葉を、食物連鎖にも入っていない人間の分際で使いたがる僕たちだもの。弱い奴は食われる。弱い奴は臓器を取られるのだ。

弱肉強食という言葉を好んで使う人はいつも、食われる心配のない人だ。

 

おそらく論理的に臓器売買を否定することはできない。論理では殺人も自殺も否定できないのと一緒で、臓器売買も同じだ。

だから臓器売買はなくならない。そしてそれによって得をするのは富のあるものだ。

世界はますますおかしな方向に行く。

 

何でもかんでも市場原理に基づいて考えて需要と供給を満たす必要は果たしてあるのだろうか。

僕はどうも納得がいかない。

また奴隷制度が復活するとか、臓器移植用の人間が誕生するまでは言わないし、そこまでひどい世界にはならないと信じているが、でも僕は「臓器不足」という意識から生まれる世界が幸せな世界だとはどうしても思えない。

勝者が勝ち続け、敗者は負け続ける。敗者は“物”として扱われる。そういう世界を象徴しているとしか思えない言葉だ。

 

もっと考えてみよう。

移植は確かに命を助けるかもしれない。でもそれは目の前にある命だけだ。それによってもしかしたら多くの命が失われるかもしれない。

そのことをもっと想像して見る必要があるんだと思う。もちろん、目の前の大切な人の命を助けたいと思う気持ちは否定できないが。

いや、だからこそだ。だからこそ、僕達はもっと死を受け入れなければならないのではないか。

生まれることを拒否できないように、死ぬことも拒否できない。

だったらもっと潔く死ぬことの価値を認めてもいいと、僕は思う。

 

この機会だ。臓器が不足しているなら、僕が仮に病気になって臓器移植が必要になっても絶対に臓器を需要する側にはならない、と宣言しておく。そのまま死を受け入れる。移植は受けない。

以前は死ぬ時には臓器提供したいと思っていたが、それは自分のわがままだと思いなおした。やはり人間はそこまでやるべきじゃない。今はそう思う。だから僕は自分の臓器も提供しない。

僕の臓器で誰かの命が救われるのは確かに素敵だけど、でもこの問題は当事者だけで完結する話じゃないんだ。

だから僕は臓器をあげないし、もらわない。

 

世の中の流れがそうはいっていないことはもちろん知っている。

 

うまくいかないもんだ。

 

とにかく日テレには、もっと表現を考えてもらいたい。

言葉はイメージを作るんだから。世界はイメージで回っている。つまり、言葉は世界を動かすんだよ。もっと気をつけてもらわなきゃ、と思う。

 

ではまた。

 

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コメント

>まゆさん
近くにお住まいなのですね。この辺はいいとこですよね。

この前コメントに書き込んだこと以上に僕からまゆさんに言えることはないので、もう何も言いません。ただ僕は、まゆさんが今楽しいって思えることこそ全てなのだろうと思います。なんだか安心しました。

考えれば考えるほど分からなくなるのは、僕も同じです。

投稿: 上杉 | 2009年2月12日 (木) 22時43分

今日、PCでブログを拝見して知ったのですが、
私も上杉さんのお住まいの地域と
とても近いところに住んでいるので、
近い人のブログに書き込みをしていたのだと
びっくりしてしまいました。

さて、私はいまだ迷っています。
移植をしたことは、後悔していません(たぶん)。
父も健在で、移植が出来たことで私の家庭は
一般的な、幸せな家庭に戻ることが出来ました。
今では友人と話をしたり、仕事をしたり、
ちょっと他人の悪口を言ってみたり…。
出来なかったことすべてが出来るようになり、
一日、一日が楽しくて仕方ありません。

ですが、「自分が万一移植を必要となったとしても移植を受けない、そこまでして生きていたくない」という方を見ると、移植をしたことが、
とても悪いことだったのだ、と考えてしまうのです。

あの時、死ぬべきだったのか?
人として生きることが、私には認めらないのか?
生きていたいと思うことがそんなに悪いことなのか?

考えれば考えるほど、わからなくなります。

投稿: まゆ | 2009年2月12日 (木) 21時56分

>まゆさん
はじめまして。コメントありがとうございます。

僕に言葉足らずの点があったかもしれませんが、僕はあくまでも未来に想いを馳せて本記事を書きました。すでに移植手術を受けた方や、今まさに移植手術を受けようとしている人のことをどうこう言うつもりは全くありませんし、ましてや移植手術を受けて今生きている方を、死ぬべき存在だなんて微塵にも思っておりません。生きる道があるならそれを選ぶのは現代を生きる僕たちには当然のことだと思います。矛盾しているように思われるかもしれませんが、そう思います。

僕が一番言いたかったことは、これ以上命を軽視するような世界にはしたくないということなんです。そして命を大事にするということは、長く生きることとは切り離して考えなければならないのではないかということを僕は言いたかったのです。もし誤解されていたようであれば、それは僕の文章の拙さ故かもしれません。誰か個人を批判するようなつもりは一切ありません。社会を、強いては資本主義を批判したつもりでした。誤解を恐れずに言うならば、良い移植手術の裏には悪い移植手術もあるということで、悪い移植手術とは生きている貧しい子供から生きたまま臓器を取り出し、売買し、それを買った人に移植をすることです。そういう弱肉強食的な社会を批判したいのです。

まゆさんは移植を受けたことを後悔しているのでしょうか。あなたの文章からは、後悔しているようにも感じられるし、全くそうではないようにも感じられました。
僕は移植手術を受けたことはないし、身内にもそのような者はおりません。ましてやあなたのことも、その手術の事情も知らないので、あなたの気持ちは分かりません。なので本当なら僕があなたに言えることなんて1つもないのですが、図々しくも意見を言わせてもらえるならば、僕は移植手術を受けた方にこそ命の大切さを語って欲しいと思っています。僕みたいな人間が言うよりもはるかに説得力があると思うからです。美しいという世界を語り、愛すべきものを語って欲しい。僕はそう思います。

投稿: 上杉 | 2009年2月10日 (火) 19時37分

はじめまして。
私は、臓器移植を受けた患者の一人です。
ドナーは父親です。
あなたのおっしゃるとおり私が生きていること自体、ナンセンスなことだとです。
あー、腎臓だめになっちゃった。取り替えなきゃな。とは一度も思ったことはありませんが、
死ぬべきだった人間が、今自由に生きていることは、非常に恐ろしいことです。
せっかく生きるチャンスをくれた父親には申し訳ないけれど、
もしあなたが本来進むべきだった道へ戻るべきだと言ってくれるなら、
覚悟出来るような気がします。
私は死ぬことが恐ろしいのです。
この世界は美しく、一緒にいたい、愛すべき人が多すぎて、覚悟が鈍ってしまいます。

投稿: まゆ | 2009年2月10日 (火) 01時07分

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