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2009年11月

2009年11月29日 (日)

バスの話

僕は西武新宿線の花小金井駅行きのバスに乗っていた。PASMOを当てて料金を支払い、空いてるバスの一番後ろの席に座った僕は、音楽を聴きながら小説を読んでいた。乗客は、一番前のちょっと高くなった席の両側に二人と、優先席に一人、一番後ろの席の、僕とは逆側に一人がいるだけだった。なぜか優先席に座っている男だけが若くて、後はおじいさんかおばあさんだった。あの高い席におばあさんが座っている光景は、少し異様にみえた。しかもその後ろの優先席には若い男が座っている。

バスという乗り物は、生活が見える気がしていい。病院前のバス停で降りればおそらく病院に用があるのだろうし、団地前で降りれば家に帰るんだろうと想像ができる。買い物袋を提げている人も多い。電車だとこうはいかない。そもそも、電車は乗客が多すぎて一人一人のストーリーを想像することすら難しい。というよりも億劫だ。

バスはいくつかのバス停を通過した。どうやら乗る客も降りる客もしばらくはいないらしい。土曜日の午後。おそらく今から出掛ける人も、今から帰る人もいないのだろう。今まさに、遊びや習い事や食事会の真っ最中なのだ。雲ひとつない空に、やや強い風、暖かい気温、空いているバス。もし天国というものがあるのなら、そこにはこういう情景もあるんだろうなと思った。

バスは狭い道で速度を落とした。運転手は対向車とすれ違う度に、慎重に車を寄せた。プロの技。決して接触はしない。

やがてバスがとある公園前のバス停に停車した。そこで、優先席の男が降りた。代わりに女子高生が乗ってきた。女子高生は、後ろ半分の一段高くなった席の一番前に座って、乗ってきたときから手に持っていた携帯電話をいじくり出した。メールを打っているのか、インターネットでどこかのサイトを見ているのか、ただ過去の受信メールを見ているのかは分からなかった。あるいは株の売買をしていたのかもしれない。あの熱心さと指の動きを見ているとそんな気すらしてくる。指圧マッサージのトレーニングという可能性も排除し切れない。

バスは再び走りだし、公園沿いの直線道路を行く。僕と同じ一番後ろの席に座っているおじいさんは、ずっと新聞を熱心に読んでいる。僕は2007年に大学を卒業して以来、新聞をほとんどといっていいほど読んでいない。このおじいさんは一体、いつから新聞を読むという習慣を始めたのだろうか、と考えた。そしてそれは、何かの役に立ったのか、と考えた。しかしすぐに取り消した。それを言ったら僕が読んでいる小説だって同じじゃないか、と思ったからだ。僕が村上春樹を読むのはちょっとかっこつけたいからだし、伊坂幸太郎を読むのは幸せな気分になりたいからだし、恩田陸を読むのはちょっと不安になったり恐怖したりしたいからだ。なんだ、新聞の役割とまったく同じじゃないか、と僕は思った。

バスが次のバス停に止まった。そしてまた、一人の若い男が乗ってきた。その男は誰もいない優先席に座った。ん?少し気になったが、僕はまた文庫本に目を落とした。でも今日は本よりも音楽に頭がいってしまう。こういうときはたまにあるが、そういうときはあまり本が面白くないときだ。僕は本を閉じて鞄に入れた。そしてポータブルオーディオプレーヤーを操作してお気に入りの曲をランダム再生の中から探していた。これじゃない。これじゃない。これじゃない。ピピ。ピピ。ピピ。何度か曲を先送った後に、最高のイントロが聴こえてくる。その瞬間、多くの男女が飛び跳ね、あるいは走り出す映像が浮かんだ。ヴォーカルの声が聞こえだすと、今度は気持ちよく叫ぶバンドの映像が浮かんだ。きれいな声なんて出そうともせず、ありのままの自分を曝け出す姿だ。

僕は外に目をやった。気づかない間にバス停に着いていたらしく、さっき乗ってきた男が降りるところだった。ちょうど外に目をやっていた僕は、ずっと男を見ていた。男は、バスからぴょん、と飛び降りるようにして降りると、地面に足が着くや否や地面を蹴って走り出した。バスの進行方向と同じ方向へ。乗ってくる客はいなかった。バスは男を降ろすとすぐに走り出した。道は空いている。バスは大げさなエンジン音を響かせて加速した。しかしその加速が何の為だったのか疑いたくなるくらいすぐに、バスは次のバス停に着いた。そこでは一人のおばあさんが乗ってきた。おばあさんは運転手に手に持っていた何かを見せると、誰もいない優先席に座った。それを待って、ドアが閉まりバスが走り出した。

そのときだった。バスがきぃっと急停車し、前方のドアが再び開いた。「すみません。ありがとうございます」という声の後に姿を見せたのは、先ほどのバス停で降りた男だった。男は運転手に何かを見せると、優先席に座った。男は同じことを、次のバス停とその次のバス停でもやった。どこまでやるのか期待したが、次に男がバスを降りてからは、もう二度と男がバスに乗ってくることはなかった。予定通り降りるべきバス停で降りただけなのか、次のバス停でバスをつかまえられなかっただけなのかは、分からない。念のため後ろを振り返ってみると、そこには全力で車道のど真ん中を疾走する男の姿があった。なんてことはなかった。

やがてバス内に、終点を告げるアナウンスが響いた。それに反応するように一番前に座っていたおじいさんがバス中に聞こえる声で言った。

「中央特快東京行きが1番ホームに入ります。国分寺を出ると次は三鷹に止まります。武蔵小金井、東小金井、武蔵境をご利用のお客様は、2番ホームに停車中の快速東京行きをご利用ください。駆け込み乗車はおやめください!」

僕は慌ててバスに表示された終点のバス停の名前を確かめた。そこには確かに「花小金井駅」と書かれていた。

一番前のおじいさんは後ろを振り返り、ほんの一瞬だけ微笑んだ。

 

 

 

 

なんてことは、全部嘘だ。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月28日 (土)

新潮社ストーリーセラー編集部 編『Story Seller』

を読んだ。

 

これは総勢7名の作家の短編を集めた本で、特にテーマなどがあるわけではない。

全体の感想としては、まぁ悪くないという感じ。いいものもあれば、全然面白くないものもあった。

購入のきっかけは伊坂幸太郎。1つ目の話が伊坂幸太郎なのだ。それを書店で知り、即購入。でも伊坂幸太郎の話『首折り男の周辺』はイマイチだった。

良かったのは、近藤史恵の『プロトンの孤独』、有川浩の『ストーリー・セラー』、道尾秀介の『光の箱』。打率0.428。野球でいえばかなりいい数字だ。買って損はないといえる。

『プロトンの孤独』は、ロードレース(自転車)の話で、主人公のキャラクターが爽快で気持ちが良かった。あとスポーツが題材なものはどうしても惹かれてしまう。これはもう致し方ないことだと悟った。

『ストーリー・セラー』は、何ていうか、引き込まれた。括ってしまえば恋愛小説といえるのかもしれないけど、そんな軽いもんじゃない。作家の妻と彼女を支える夫のお話。出会い、恋に落ち、夢を実現し、病気になる。引き込まれた。

『光の箱』も、括ってしまえば恋愛小説といえると思う。でもこれも色々と肝を冷やされた。ミステリーの一面も持っていて、とても面白かった。そして、ラストが良かった。ラストが良いかどうかは、とても重要だ。

 

伊坂幸太郎が面白くなかったのは残念だったけど、普通なら読む機会がなかったであろう作家の話が読めたのは良かった。ここから広げたくなる作家もいる。

悪くない本だ。

何様だ。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月27日 (金)

「永遠」から思うもの

「永遠」という言葉を聞いて何を思うか。

ELEVENTYSEVENの曲を聞いていて、これが重要だ、と思った。

「永遠」から幸せなことを連想できる人は、今きっと幸せな人なんだ。

現在の幸せから伸びる道を「永遠でありますように」と望むことができる。

逆に不幸を連想する人は今不幸な人かもしれない。「今の状態が永遠に続くと思うと・・・」という具合に。

 

僕は「永遠」という言葉を思うと、宇宙がイメージされる。

これは実に微妙なイメージだ。

「美しいもの」と捉えればポジティブだし、「孤独」と捉えればネガティブにもなる。微妙だ。

僕は今、そういう状態ってことなのかもしれない。

うん、確かに、微妙だ。ありとあらゆる場面において、僕は今、微妙なのだ。

 

Forever is a lonely word

In a sentence without me and you

If you look it up you'll see

In my dictionary

That underneath forever

There's a picture of you and me

<訳>

オレと君がいない文章の中だったら

「永遠」なんて淋しい言葉さ

オレの辞書を調べてみたら

君にもわかるはず

「永遠」という言葉の下には

君とオレの写真がついてるんだ

~ELEVENTYSEVEN『LONELY WORD』より~

 

なんてくさい詩だ。

しかし、何ていい詩だ。

 

さあみなさん、「永遠」をイメージして。

 

 

ではまた。

 

 

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あるいはバイト

今朝、地元で、掃除をしている若い女の子の集団を見掛けた。

彼女たちは、近所の大学名がプリントされたジャージを着ていた。

おそらく奉仕活動として掃除をしていたんだろう。

しかしよく見ると、彼女たちが掃除をしていたのはコインパーキングの敷地内だった。


他人の私有地掃除すんのかよ!


ではまた。

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2009年11月26日 (木)

想いってやつ

昨日から会社でやたらと「想い」という言葉を耳にするので、今日は「想い」というものを考えてみたいと思う。

 

うちの会社でよく聞く使われ方は、「いいものを作りたいという想い」とか「想いだけは誰にも負けません」などだ。

前者の意味は、「意思」と置き換えて問題ないだろう。あるいは「希望」。

ただ後者はよく分からない。想いだけは誰にも負けない、という文脈から分かることは、まず「想い」というものには勝ち負けがある、ということだ。それなりの人数が共通(類似)した「想い」を持っているであろう、という前提もあることになる。でなきゃ勝敗を決めることはできないから。いくらレアル・マドリードが強いといっても、彼らが勝てるのは同じサッカークラブだけなのだ。

一口に「想い」といっても意味は異なる。結局は文脈で読み取るしかない。

そりゃそうだ。

でも一旦、辞書的な意味を知っておくのも悪いことではないだろう。言語は共通認識のもとで成り立つのだから。

 

【思い・念い・想い<おもい>】

⑴思う心の働き・内容・状態。

①その対象について、これこれだ、こうだ、こうなるだろう、または、こうだったと、心を働かせること。「―をめぐらす」

②あれこれ心に掛けてわずらい、または嘆くこと。心配。「―に沈む」

③何物・何事かに働き掛ける気持。

 ㋐慕う、特に異性に心を寄せる気持。「―を遂げる」

 ㋑こうしたい、ありたいとの願い。「―がかなう」

 ㋒執心。執念。うらみ。「人の―は恐ろしい」

⑵物事から自然に感じられる心の状態。「わびしい―がする」「―を新たにする」

⑶(悲しい嘆きで)喪に服すること。喪の期間。

~広辞苑より~

 

う~ん。多い。意味が多い。

こりゃ意味について考えるのはあまり意味がないな。

 

ところで、よその会社ではどれだけ「想い」が重視されているのだろう。僕は生まれてこの方、一つの会社でしか働いたことがないから(バイトを除いて)、よく分からないのだが、うちの会社、少なくとも僕の職場では「想い」ってやつは結構な幅を利かせている気がする。「いいものを作りたいという想い」が溢れている。みんなそれが分かっているから、「想いがある」ということをやたらとアピールする。そして僕はそれにウンザリする。

別に「想い」ってやつ(それ自体がよく分からないものだけど)を否定したいんじゃない。「想いがある」ってことをアピールすることが、僕は何かしょーもないことに思えてくるんだ。だって他人にとって、自分の想いなんて関係ないじゃないか。「想いだけは誰にも負けません」だなんて、もう。想いは誰にも勝てなくても、やることやります、とか、いいもの作ります、の方が断然いい。まぁ「想いだけは誰にも負けません」という台詞には、想いアピールの他にも、謙虚さアピールと事なかれ主義が入り混じっているだろうから、何もムキになって批判する必要はないわけだけれども。

いずれにせよ、僕は「想い」って言葉があまり好きじゃない。まぁ響きはきれいだと思うけど、こういうきれいな言葉ってのは、どうも使われ方がきれいじゃない気がしてしまう。ていうか、きれい過ぎて、痒い。だから僕はこれからも、周りに「想い」なんて言葉を使う人がいる限り、「僕には想いなんてものはない」と言い続けるんだろう。

実際にあるかどうかは別にして。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月25日 (水)

へとへとDAY

Photo 何ていうか、今日はもうへとへとだ。

長時間の会議と、その後の立食パーティー。

 

立食パーティーは僕には合わない。

ついでに言うなら、長時間の会議も僕には合わない。

僕の筋肉は白くて、持久力タイプじゃないんだ。

合わないことをすると、疲れる。

 

【へとへと】

ひどく疲れて体力や気力がなくなっているさま。「―になる」

~広辞苑より~

 

へとへとな上に、手首まで痛い。

どうやら物を運んだときに、変な捻り方をしたらしい。

会議中の落書きのし過ぎ、ということでは、ない。

おやすみなさい。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月24日 (火)

伊坂幸太郎『SOSの猿』

を読んだ。

 

副業で悪魔祓いをしている主人公が、とある引きこもりの青年の悪魔祓いを引き受けたことから始まる物語。そのストーリー進行は実にユニークだった。最初、どうなってんだこれは、という感じだった。もちろんそれは、中盤あたりに明らかにされるのだが、「そういうことだったのか!」という納得感は気持ちが良かった。

今作は、またまたいつもとは違う作風の小説だった。何とも、説明が難しい。面白かったのだが、伊坂幸太郎の初期の頃とは全く違う。気障な表現も少ないし、格言めいた台詞も少ない。ただ、「らしくない」なんて言葉を使う気にもなれない。たとえば最後の一文を読んだ僕は、あぁ、これが伊坂幸太郎の小説の終わり方だ、と思った。まさしく、「伊坂らしい」といえるだろう。

『SOSの猿』というタイトルがまずいい、と僕は思った。そして、表紙のデザインが最高。きれいで、不思議だ。書店でご覧あれ。

それに、帯に書かれたコピーもいい、と思った。

 

「この物語が、誰かを救う」

 

会社の先輩が、いつか同じようなことを言っていたな、と思った。そしてこの小説を読んで、たしかに物語は誰かを救うな、と思った。というよりも、物語が誰かを救えないでどうするんだ、と思った。それこそがあるべき姿のように思えた。

他にも、「無意識」について語るシーンも興味深かったし、悪魔祓いや音楽について語るシーンも印象的だ。

なんかこうやって感想を書いていると、やはりこの作品は伊坂幸太郎の作品だったんだな、と思えてきた。思えば、格言めいた台詞や面白い比喩や、気障な表現がけっこうあった。前よりはそれが隠れるようになっただけなのかもしれない。まぁ難しいことは分からないが。

 

それではいつものように折り目をつけたお気に入りの一文を紹介。

 

「物語を考えることは、救いになるんですよ」とわたしは言う。(中略)「たとえば、二度と会えない誰かが今どうしているのか、最後まで見届けられなかった現実がその後どうなったのか、そういった物語を想像してみると、救われることはあるんです」

~伊坂幸太郎『SOSの猿』より~

 

僕はそういう物語を作れずに一人でクヨクヨしたりするのが得意だ。たまに物語を作ったと思えば、自分が悲劇の主人公の悪趣味な物語だ。

物語とはそうあるべきではない。

この小説を読んで、僕はそう思った。

この物語が、僕を救った!

 

 

なんつって。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月23日 (月)

神様が残したもの

朝起きると、ベッドの下で知らないおっさんが寝ていた。おっさんの顔は髭でそのほとんどが隠れていて、紺色の汚いジャンパーにカーキー色のズボンを履いていた。コタツに足の先っぽだけを入れて、寝息も聞こえないほど静かに寝ていた。

ほとんど「気をつけ」の姿勢だった。そういえば、最後に「気をつけ」をしたのはいつだろうと、僕は思った。

僕は混乱したわけではなかったけど、状況のすべてを理解したわけでもなかった。とりあえずもう一度布団をかぶり、仰向けに横になった。この状況を落ち着いて考えてみようと天井を見上げていると、視界の左側に何か起き上がるものがあった。

おっさんだ。おっさんが、起きた。

「おはよう」おっさんは、まるで僕の親戚の人みたいな気軽さで、言った。

「だれ?」僕は当然思うべき疑問を、やっと口に出した。

「あぁ、驚かせたか。悪いな」

「いや、別に驚きはしないけど。とりあずさ、おっさん誰よ」

「まぁそうくるよなぁ。う~ん、何て言ったらいいのかな。いつもさ、そうくるんだけどさ、こう、しっくりくる答え方ができねぇんだよ」

なに言ってるんだこいつは、と思った。いつもって何だ。でもここは一旦聞くべきだと思った。

「まぁ、分かりやすく言うとさ、あれだよ。本当はこういうのも正確な話じゃねぇんだけどよ」

「なに?」僕はちょっとイライラしながら続きをうながした。

「神様だよ」

は?

「ほら、お前俺の寝てる姿見ただろ?どうだった?すげぇいい姿勢で寝てただろ。あんな姿勢で寝てるやつなんか見たことあるか?ねぇだろ。それが神様なんだよ。神様はさ、すげぇいい姿勢で寝るんだよ」

“神様”はそういってトイレに入った。トイレの電気のスイッチの位置も知っていた。洗面所と風呂場とトイレの電気のスイッチが一箇所に集まっているにもかかわらず、神様はトイレの電気を一度でつけた。

僕はきょとんとした。それ以外に、僕のあるべき状態はないように思えた。どんな思考もできない。できないなら、きょとんとしていようとすら思えた。それくらい思い切ってきょとんとできた。

神様はすぐにトイレから出てきた。水を流す音がしなかった。

「トイレで何してたの?」

「何ってお前、トイレですることなんて一つしかねぇじゃねぇか。ウンコだよ、ウンコ」

「流した?音聞こえなかったけど」

「流したよ、流した。神様だからな、そうなっちまうんだよ。聞こえねぇんだ」

ふ~ん、と思うはずがなかったが、それ以上突っ込む気にもならなかった。

やがて神様は冷蔵庫を開け、食材をいくつか取り出して朝食を作り始めた。僕はそれを特に止めなかった。神様のやることに文句をつけてはいけない、と思ったわけではなかったが、神様には、有無を言わせない何かが確実にあった。

食パンを2枚焼き、ハムエッグを2つ作り、熱い紅茶を2つ入れた神様は、それを一人で全部食べた。

「じゃあ、邪魔したな」

神様はそう言い残すと、そそくさと玄関のドアを開けて出て行った。それからしばらく、というよりも神様がそこにいたときからずっとだけど、僕はベッドから出れずにきょとんとしていた。

10時くらいに、やっと僕は体を動かすことができた。とにかくベッドから出て、今日をはじめなければならない、と思ったのだ。テーブルの食器を流しに片付け、顔を洗い、トイレに入った。

トイレには、ウンコがあった。でっかくて、真っ黒で、硬そうな、ウンコが、あった。

 

 

 

 

嘘だ。

 

 

ではまた。

 

 

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北川歩美『金のゆりかご』

を読んだ。

 

なかなかイマイチな小説だった。

早期幼児教育による天才児育成と、それに関連する壮大な陰謀。壮大なミステリーだった。

でも、それだけだった。

壮大で結末が分からないという点では、ミステリーとしてはいいんだろうけど、面白いかといえば別にそんなことはないし、感動もしない。ただ、一つ問題提起的なものはあるかな、とは思った。

子供への愛情の注ぎ方。

特に2人以上子供がいる親は、平等に愛情を注がなきゃいけない、と思いながらも、知らず知らずのうちに偏ってしまったりするだろう。これは仕方がないことだと思う。人間だもの。でも誰に愛情が偏るかというのは個人差。優秀な子に偏ることもあれば、逆に手の掛かる子に偏るということもあるだろう。男とか女とか、血の繋がりとか、容姿とか、そういったことも偏りの要因になるかもしれない。

『金のゆりかご』では、天才を溺愛する男が原因で事件が起こる。天才に憧れ、天才を作ろうとする。天才のためなら、天才でない人間が犠牲になるのを良しとする、狂人が引き起こした事件。これは極端な例なのだろうけど、きっとあることなんだろう。誰だって、自分の子どもが人よりも秀でていれば嬉しいだろうし、ちょっと調子に乗ってしまうくらいはある。

そういう意味でいえば、誰でもあの狂人になる可能性はあるんだと思う。

 

実際僕は、自分の子どもが出来たら天才に育てたい、と公言している。僕のはスポーツの天才。できればサッカー。でもだからって何か特別なことをやらせるってわけじゃないけど、もし二人以上の子を持つことになった場合、もしかしたら運動能力の優れている方に愛情を傾けてしまう可能性は、否定できない。気をつけよう。まぁ結婚してから言えよって感じだが。

 

 

ではまた。

 

 

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歩き寝

ぼとっ。

さっき買ったばかりのパンが落ちた。

ホームパーティーが催されていた友人宅を出たのが午前4時。遅い夕食なのか早い朝食なのか自分でも判断がつかなかったが、僕は歩いている途中にあったコンビニに入ってパンと暖かいお茶を買った。パンをレンジで温めてもらい、店を出た。さっそくパンを食べようと袋を開けたとき、パンが落ちた。僕が空けた側とは逆側に、店員がレンジでチンをする際に空けた穴があったのだ。それにまったく気がつかず、パンは無常にも地面に落ちた。

僕は暖かいお茶を飲みながら家路を歩いた。

まだ眠くない、と思っていた。でもみんながバタバタと倒れだしたから、帰るか、と思ったのだ。まだ元気だと思ったから歩いていたのだ。酔い覚ましも兼ねて。

でも僕はどうやら眠かったらしい。気がついたら、歩きながら寝ていた。何度か目が覚めたときに、目の前におじいさんがいた。二度、いた。寝ぼけていたわけでも、幽霊を見たわけでもない。ただ単に、ふらふら歩いていたからウォーキング中のおじいさんにぶつかりそうになっただけだ。物体は、質量の大きいものに引き付けられるというのは、どうやら本当らしい。

やがて大通りに出た。僕はもう限界だった。これ以上歩くのは、危険だと思った。

そこに、ちょうど一台のタクシーが通りかかったので、僕は手を挙げて止めた。行き先を伝えると、僕は安心して眠りについた。

指示通りに運転してくれたのだろう。運転手さんは僕を起こし、降ろしてくれた。なんて便利な世の中だ、と僕は思った。もしタクシーがなければまたバス停のベンチで寝ていたかもしれない。この季節、それは命にかかわる愚行だ。タクシーは命の恩人だ。

ありがとタクシー。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月21日 (土)

生き延びる方法

Life can feel a red light screaming go

Every day needs an answer I don't know

【訳】人生は「行け!」と叫んでいる赤信号みたいに思えたりもして

  毎日がオレの知らない答えを要求する

~ELEVENTY SEVEN『TRYING』より~

 

赤は止まれだ。その赤が「行け!」と叫んだら、どうしたらいいのか分からない。

人生がそんな感じってのは、何か分かる気がする。

結局自分ってことだ。

赤とか青とかじゃない。

右を見て、左を見て、もう一度右を見て、それから自分で意思決定をしなければならない。

ただ、「赤だから」という理由で止まっていても駄目だし、「行け!と言われたから」という理由で突っ走るのには危険が大きすぎる。

あらゆるものを一判断材料として捉え、意思決定をするのだ。

そうして何とか、知らない答えを出していく。間違っていてもいいから、とにかく答えを出すのだ。

そうすることで今日を生き延びる。

なんてしんどいんだ!!!

 

 

ではまた。

 

 

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事業仕分け

事業仕分けについて、世間では色々な意見があるようだ。

その中の一つに、「たった1時間の議論だけで決めるのはおかしい」という意見がある。

これに対しての一般的な反論は主に2つ。

1つは、「これで決定ではない」ということ。

もう1つは、「あの場での議論は1時間だが、見えない部分でもっと議論・考察されている」ということ。

まぁそりゃそうだろうと思う。

でも僕はこの反論は関係なく、こう思う。

 

1つの事業に1時間もかけて議論するって、結構すごいんじゃないのかねって。

 

抽象的で壮大な議論だったら1時間じゃ短いと思うが、あそこで行われているのはもっと具体的でシビアな議論のように思える。だったら1時間という時間は、それほど短すぎるということもないんじゃないか。

そりゃ時間があればもっと議論はできるだろう。でもそれは結局、結論が出ない(=何も変えない)を助長するだけのようにも思える。

民主党は変えようとしている。

だったら1時間でいい、と僕は思う。

そもそも今まで、何の議論もされずにやってきた事業だってあるだろうし。

のほほんと甘い汁吸ってきた奴らに一撃お見舞いするためにも、僕はこの事業仕分けはいいと思う。

ただ、予算削減・撤廃が弱者に跳ね返ってくるようなことがあっては、絶対にならない。民主党は、そこは命をかけて監視していく必要があると思う。

 

あともう1つ僕が気になっているのは、プレゼンターの問題。プレゼンターの能力がその事業の良し悪しをある程度左右してしまうのは仕方ないと思うけど、その影響力が大きすぎるのはよろしくないと思う。民主党の蓮舫さんのコメントを聞いていると、何かプレゼンターのプレゼン能力をかなり重視している気がするので、それがちょっと怖い。

事業は素晴らしいのに、プレゼンで失敗したってだけでそれが認められないのは、ちょっと違うと思う。

そこはどういう風に見ているんだろうか。仕分け人たちは。

まぁもちろん、ただプレゼンしてもらうだけでなく、ちゃんと自分らで調査もしてるとは思うけど・・・。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月20日 (金)

ドナドナ

この晴れ渡る空。
こんな空を見ていると、人がこんなにも簡単に幸せになれることを知る。
この晴れ渡る空の下で不幸なのは、市場へ運ばれる子牛くらいだ。


あーるーはれた
ひーるーさがり
いーちーばーへつづーくみちー


ではまた。

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2009年11月19日 (木)

ベース

今日、会社で面白い人を見つけた。

何かと「ベース」の話をする人だ。

「ベース」と言っても、野球のベースでもなければ、米軍や自衛隊の基地のことではない。

その人がどう使っていたかを具体的に紹介するのがいいだろう。

 

「すみません。ちょっといいですか?正直ベースで言って・・・」

「いや、まあ、現実ベースで言って・・・」

 

さあ、これを読んでどう思う。

僕はこれを聞き耳を立てて聞いていたわけだけど、こう思った。

「きっとこの人は、ビジネスマン的な人に対して、何らかの嫉妬に近い感情を持っていたのだろう」と。

コンプレックスといって支障はないと思う。

論理的でなかった人が異様なまでに論理的になるのと似ていて、ビジネス用語を使わないような人がそれをコンプレックスに思ったときに、異常なまでにビジネス用語を使うようになるのと同じだ。

「ベース」なんて言葉、普通は使わない。

まず、「ベース」は日本語じゃない。

使う人間が英語で育ってきた人間なら仕方がない。でも、日本語で育った人間が、わざわざ分かりにくい英語に置き換えて話す理由は、実はそんなにない。唯一の理由は、「それっぽく聞こえる」ってことだ。

これの大事なところは、それっぽく聞こえるってことは、ビジネスマンにおいては、極めて重要だということだ。

自分で問題点を作り出し、そこにビジネスを生み出す現代において、それっぽく聞こえるということは、本当に重要なのだ。「あ、なるほど。それは何とかしないといけないね」と思わせたら、実はそれがウンコみたいなことでも、そこにビジネスが生まれる。

「本質」という言葉が好きな人にとっては実に本質的な話ではないから納得いかないはずの話なのに、それっぽく聞こえることによって、本質を捉えてるっぽく聞こえるのだ。

これは凄いことだ。

凄い、アホなことだ。

 

【base<ベース>】

①土台。基礎。基本。「賃金―」

②基地。根拠地。

③野球で、塁のこと。「―・ランニング」

④トランジスターの電球の一」

~広辞苑より~

 

「ゼロベース」というのはよく聞く。つまりは、前提をなしにして話しましょうということだ。

できるリーダーの代名詞とも言えるべきワードだ。

きっとそこから広まったのだろう。~ベース。

ベースをつけると何かとよく聞こえる時代なのかもしれない。

ガンダムブーム再燃の予感だ。

 

Photo  

 

 

 

 

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月18日 (水)

寒い

北風吹くこんな夜には歌いたくなる。

 

きぃたかぜぇ~

こぞおぉ~の かんたろぉ~

 

がんだろ゛~!!!!

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月17日 (火)

お~ば~ま~

日本には24時間滞在。

中国には3泊4日。

へー。

あっそ。

しかも来たのは東京。

ノーベル平和賞受賞おめでとうございました。

 

 

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常に一歩先を行く現実

想像は現実に縛られるが、現実は想像に縛られない。
現実に何が起こるか分からないということは、そういうことだからである。

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2009年11月16日 (月)

デジャビュってやつ

【deja vu フランス<デジャビュ>】

〔心〕それまでに一度も経験したことがないのに、かつて経験したことがあるように感ずること。既視感。既視体験。

~広辞苑より~

 

今日、久しぶりにデジャビュを感じた。感じた、っていう言い方でいいのかどうか分からんが。

仕事中、後輩から話しかけられたときに感じた。この話は一度聞いたことがあるぞ、と思った。

でもその内容は僕が知っているはずのないものだったから、これは二度目に聞く内容ではなく、デジャビュだったのだ。

しかし何でこんな風に感じるんだろう。もちろん初めてデジャビュを体験したわけじゃないが、ずいぶんと久しぶりだったから少し気になった。デジャビュに出会う時期と出会わない時期。そこに一体どんな違いがあるんだろうか。

とりあえずWikipediaで調べてみた。

 

20世紀末から、既視感は心理学、脳神経学的研究対象として注目された。科学的には、既視感は予知、予言ではなく、記憶が「呼び覚まされる」ような強い印象を与える、記憶異常であると考えられている。

ほとんどのケースではその瞬間の記憶のみが強く、その記憶を体験した状況(いつ、どこで等)についてははっきりしない事が多い。同様に時間の経過により、既視感の経験自体が落ち着かない経験として強く記憶に残り、既視感を 引き起こした事象や状況の記憶はほとんど残らないことが多い。これは短期記憶と長期記憶の重なり合いが原因と考えられている。体験している事象は脳の意識的に働いている部分が情報を受け取る前に記憶に蓄えられ、処理されるからである。

他の説明としては、視覚によるものがある。その理論によると、片目がもう片方の目より僅かに早く見た部分的な視覚が記憶され、ミリ秒後にもう片方の目で見た「同じ」光景が強い既視感を引き起こすと言うものである。しかしこの説明は、既視感のきっかけが聴覚によるものや指先によるものである場合を説明できない。また、隻眼の者も既視感を経験することが報告されており、これも説明出来ない。

~Wikipediaより~

 

記憶異常か。たしかに、実際は経験していないことを経験したと思うのだから、記憶の異常だ。

でも、記憶ってそもそもそういうものじゃないのかね。

たとえば僕の記憶は、「実際に経験したことの記録」というよりもむしろ、「実際に経験したと思っていること」だ。

記憶は美化される、とよく言われるけど、そういうことだ。自分の高校時代の記憶はいいものじゃなかったけど、楽しそうなクラスにいたことで自分も楽しい思いをしていたはずだ、とかね。

実際にどうだったかということと、記憶による記録は違うこともあるってことだ。

でもデジャビュの大半は、つい最近経験した気がするって感覚だ。昔経験したことがある気がするってのはない。気がする。

となるとさっき僕が言ったような記憶違いとはまったく異なる。

う~ん。結局よく分からん。

ただ一つ言えることは、デジャビュを感じるとなぜかテンションが上がるってことだ。

もしかしたらデジャビュは、神様の愉快ないたずらなのかもしれないな。

誰も損をしなければ、別に大して得もしない。

ちょっとテンションが上がるだけの、愉快ないたずらだ。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月15日 (日)

原点

「お母さんお母さん!鍵ちょうだい!鍵!」

母はお母さん友達とのおしゃべりを中断し、しきりにズボンを引っ張る僕を見下ろしてきた。

「何よ。どうしたの」

「もれる!もれる!」

大か小かも言わず、とにかく早口にそう言うと、母も急に慌てて肩から提げていた小さな布製のショルダーバックに手を突っ込んだ。

「もう!なんでもっと早く言わないの!ていうか幼稚園でしときなさいよ!」

たしかに、と自分でも思うが、仕方ない。だって幼稚園で母の迎えを待ちながら先生が読み聞かせてくれる『エルマーのだいぼうけん』の最中には、その気配はまったくなかったのだから。

ここはもう幼稚園から100メートルは歩いたところだ。幼稚園に戻った方が早いのは間違いなさそうだが、トイレのために戻るのもかっこ悪い。これは母と僕の共通認識だったのだろう。母も、幼稚園に戻ってしてきなさい、とは一度も言わなかった。

「早く!早く!」

「はいはい。もう、ちょっと待ちなさい」

僕がお腹を押さえながらもぞもぞとしていると、母がやっとバッグから引き抜いて鍵を渡してきた。僕はそれを奪うように取り、「一人で先に帰るから!」と言って猛ダッシュした。これじゃ迎えに来た意味がない、と母が思ったかどうかは知らない。

26歳になった今、猛ダッシュの道中の記憶はない。そこだけはポッカリと抜け落ちている。もしかしたら信号無視をしたかもしれないし、さすがにバテて途中で歩いたりもしたかもしれない。途中にいる獰猛でおっかなかったシロという犬も、もしかしたらその時だけは気にならなかったかもしれない。

記憶はここからまた始まる。

やっと家に着いた。鍵はしっかり手に握られている。もうヤツはすぐそこまで来ている。

鍵を鍵穴に入れる。入れようとする。入らない。焦る。そしてまた、焦るがゆえに、入らない。ヤツが迫ってくる。入った!鍵を回す。ガチャと心地いい音がする。ドアノブを掴み、力いっぱい引く。体を玄関の中に入れる。ドアは閉めない。それどころではない。くつは一応脱ぐ。脱ぎ捨てる。勢いあまってクツの片方がドアの隙間から外へ飛んでしまう。もちろんそれに気づくのはもっと後のことだ。玄関のすぐ横にあるトイレのドアノブを掴む。また思いきり引く。またしてもドアは開けたまま、ズボンとパンツを一気に下ろす。便座に座る。ヤツが待ってましたといわんばかりに飛び出す。僕はホッとして白いブリーフを見下ろす。そしてそこにある茶色を見て笑う。

間一髪、アウトだ。

 

 

過去は変えられない。

いくらいい高校や大学を出ていい会社に入ったとしても、僕の人生はこれまでも、そしてこれからも、クソガキ ―まさにクソガキ― の延長線上なのだ。

気楽なもんだ。

 

 

ではまた。

 

 

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垣根涼介『君たちに明日はない』

を読んだ。

 

まぁまぁ面白かった。

リストラ請負会社に勤める主人公の、クビ切りにまつわる人間ドラマ。名著『ワイルド・ソウル』の作者垣根涼介の作品で、山本周五郎賞受賞作だ。

ただ、『ワイルド・ソウル』の印象を持って読むと、ちょっとガッカリする。こっちは結構普通の話だからだ。特に面白いことも言わない。こういう会社が本当にあるのか知らないけど(まぁありそうだけど)、この小説はきっとリアルを求めたんだろうと思う。折り目をつけたページもなかった。

でもまぁ、悪くない小説だ。

なんて偉そうなんだ。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月13日 (金)

創価学会がなんだ

創価学会というものがある。

創価学会というのは、どうやら創価学会の人以外の人からみると、とても酷いもののようだ。

僕はずっと、ずっとというのは、生まれてから自分の意思を持つまでの間、創価学会というものがあって当たり前の環境で育った。

だから、今さら「創価の人は・・・」なんて言われても困る。

僕は中学生くらいのときに、創価学会っていうか両親に反発して、創価学会の集まり的なものは一切拒否するようになり、その意思を親にも伝え、うちの親は理解のある人だから、特に何も言わずに僕の考えを認めてくれた。

たぶん僕がいつか結婚することがあっても、その結婚に創価学会の影響が及ぶことはない。

でも世間はそうは思っていないようだ。「創価とは」「創価学会人とは」みたいな先入観を持つ人はそれなりの数存在しているようだ。実際にそれで結婚が駄目になる場合もあるみたいだ。くだらない。本当にくだらない。人の背景を見て人を見ていない。

僕は今日初めてそれを知って、本当に悲しくなった。

創価に思い入れなんかない。むしろ悪い印象の方が強いのは事実だ。だから僕は昔、反発した。

でも、それを他人にどうのこうの言われる筋合いはない。なんで俺の親の考え方を他人に否定されなきゃいけないんだ、と思う。俺が俺の両親に歯向かうのはいいけど、他人が俺の親を否定すんな、と思う。

俺は俺の意思で創価学会から離れた。生まれたときからあったものを、自らの意思で手放した。親は自分の意思で信仰―信仰っていうのか知らんが―している。関係ない人は黙っていてほしいものだ。

 

組織の罪を個人に着せるのは間違っている。創価学会が組織として何をしているのか、俺には真実は分からないけど、それと一般信者―これもまた信者というのか分からないけど―は別だ。

一緒にすんな。

本当にくだらない。

所属とか肩書きとか地位とか生まれとか、そんなもので人を測るなよ。

 

きっと創価学会の多くの人は、生まれたときから創価学会の人間なんだ。

生まれた環境を拒否できる人間なんて、一体どこにいるっていうんだ。

 

 

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2009年11月12日 (木)

照れ女

今日、TSUTAYAでゲームソフトと小説を買った。

合計金額が5770円だった。

僕は千円札6枚と、50円玉1枚、10円玉2枚を出した。

女性の店員はお札の枚数を数え、硬貨を目の動きだけで数えたあと、こう言った。

「670円お預かりします」

僕が思わずクスリと笑うと、店員は顔を真っ赤にして、「すみません!6070円ですね!」と慌てて訂正した。

くしゃみをした後の女性の顔がかわいいのは「照れ」とか「恥ずかしい」とかいう表情になっているかららしいが、今日僕は、なるほど、と思った。店員は特別かわいいというような顔立ちではなかったが、この瞬間の顔はかわいかった。

照れてる女の人はかわいいのだ。

もし「照れ」をコントロールできる女性がいたら間違いなくモテモテだろう。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月10日 (火)

ゴン中山・鈴木秀人の戦力外通告について

とうとうこの二人がジュビロ磐田を去る。

正直、ジュビロもよくここまで契約していたな、と思う。

僕はこの二人が嫌いなわけではない。

でも、もう戦力にならないことなんて、ちょっと前から分かっていたはずだ。

きっと、黄金時代を築いたジュビロだからこそ、その時代を支えた人間をクラブ側から切ることは難しかったのだろうと思う。

中山は現役続行を希望しているらしい。

本人がそう希望しているのなら、たぶんオファーはあるだろう。でも、J1では絶対にないと思う。たぶんJ2も無理。それほど、中山はもう動けないと思う。(去年あたりからその動きは本当に酷かった)

鈴木はどうするのだろうか。最近見てないからどうか分からないけど、鈴木ももう実力的には無理だろう。

僕は個人的に、潔くやめることを美しいと思う。まだ十分なパフォーマンスが発揮できるギリギリのところでやめるのが理想だと思っている。

でも選手にも色々な考えや想いがあるから、僕なんかがつべこべ言うことではない。

それでも僕はやっぱり、かつて凄かった選手が並みの選手にケチョンケチョンにされる姿を、見たくない。それが本心だ。

 

最後に言っておこう。

中山雅史と鈴木秀人は、本当にいい選手だった。

中山のオフ・ザ・ボールの動きは世界一だったし、鈴木の1対1の強さとオーバーラップは1級品だった。

98年あたりからのジュビロの強さを支えた二人であることは間違いない。

2001、2002年のようなサッカーはもう二度と観れないだろう。国内でも海外でも。

それほど貴重なものを見せてくれていたのだ。

二人に言いたい。

心の底から、ありがとう。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月 9日 (月)

垣根涼介『ワイルド・ソウル(下)』

を読んだ。

 

良かった。とても、良かった。こりゃ名作だ。

かつて日本に捨てられた人間の復讐がどういう結末を迎えるのか、気になりすぎてどんどん読んでしまった。下巻から登場した人物も多かったが、彼らもまたこの物語を盛り上げる役を十分に果たしていたと思う。上巻とは少し違った面白さが下巻にはあった。

あと僕は、結末がとても気に入った。詳しくは書かないが、とても愉快な終わり方だったと思う。そうこなくっちゃ!という感じだ。

深刻なことは陽気に伝えなきゃいけないんだ。

その点で言えば、垣根涼介さんはよく分かっていらっしゃる。

 

では折り目をつけた部分を紹介しましょう。

 

巨悪の芽は、常に大きな社会のうねりの中にある。否応なく無自覚な人々を巻き込んでいく。加害者と被害者の立場に仕立て上げていく。

~垣根涼介『ワイルド・ソウル(下)』より~

 

超お勧めです。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月 8日 (日)

共存

僕は自転車に乗っていた。週末の晴れた午後。調布駅から三鷹市内へ向けて北へ走っていた。

2人の野球少年とすれ違った。ユニフォーム姿の背中にはバットケースを背負い、ヘルメットをかぶって立ち漕ぎをしていた。

次にキリンが僕を追い抜いていった。のそのそと歩くイメージのあるキリンだが、実は走るとめちゃくちゃ速い。本当かどうか知らないが、時速50kmで走ることができるらしい。自動車と並走しているのだから確かなのだろう。

やがて赤信号に引っ掛かった。先ほどのキリンも引っ掛かっていた。キリンが言った。「あなたの自転車、キコキコ言ってるじゃない」

僕は言った。「うっせぇ」そこで信号が青になった。僕は3段ギアの一番軽いギアに入れて飛び出した。キリンは遅れた。脚が長いせいで加速が遅いのだ。

キリンが追いつく前に、僕は横道に入った。

そこにはワニが僕を待っていた。「お前を待っていた」とワニは言った。「そうか、待たせてすまん」と僕は言った。

「いや、それは気にすることはない」

「ただ、道を教えてくれ」とワニは言った。

僕はワニの額に貼られていた紙に目をやり、目的地の歯医者を教えてやった。そこは僕の同級生の父親がやっている歯医者だ。「院長によろしく」と僕は言った。

「ところで、僕を待っていたんじゃないのかい?」

「いや、ただ、道を教えて欲しかっただけなんだ」

ワニは腹をアスファルトに擦りつけながらよちよちと歩いていった。

僕はそこから少し自転車を漕ぎ、目に付いた定食屋に入った。汚い紺色の暖簾のかかった古臭い定職屋だ。客はいなかった。カウンターがあり、その中に店主がいた。ゴキブリだった。ただゴキブリにしては大きい。体長は人間と同じくらい。ただし形は普通のゴキブリと同じだから、人間よりも一回り大きく見える。ねじり鉢巻をしていた。

「いらっしゃい。適当に座ってよ」とゴキブリは言った。「どうも」と僕は言った。

できるだけカウンターから離れた4人掛けの席に座り、メニューを手に取った。いたって普通のメニューだ。カツ丼とかカレーとか刺身定食とか、定食屋の定番メニューばかりがそこには並んでいた。

僕はゴキブリを呼び、刺身定食を頼んだ。ゴキブリはここでやっと、水をテーブルに持ってきた。

「刺身定食ですね。少々お待ちください」とゴキブリは言ってカウンターの中へ戻っていった。

僕は店内を見渡した。マンガもなければテレビもなかった。ただ、悪くなかった。店のテーブルとかイスは、見るからに年季が入っていたがちゃんと手入れがされていて清潔だったし、メニューのデザインもセンスが良かった。ただ、料理が出来るまでやることがなかったので、窓から見えたウサギと鷹の大喧嘩を眺めていた。ウサギが押していた。

やがて店主がカウンター脇の出入り口から姿を現し、四角い盆に載った料理を運んできた。

「おまちどおさまでした。刺身定食です」

「ありがとうございます」と僕は言って、割り箸を割った。

刺身定食はなかなか美味しかった。冷凍っぽさもなければ、生臭くもなく、ご飯も水気がちょうど良かった。

「ごちそうさまでした」と言って、僕は席を立った。レジのところまでゴキブリが出てきて、僕は千円札を1枚出した。お釣りの680円を受け取って、僕は「美味しかったです。ここって、いつからやってるんですか?僕この辺が地元なんですけど、今まで知らなかったですよ」と言った。

「3億年ほど前から」とゴキブリは言った。

僕は店を出て、停めておいた自転車に跨った。上空を見上げると、1羽の大きな鳥がぐんぐんと上空へ飛んでいくのが見えた。「キィー!」という奇妙な鳴き声をしていた。悔しい、と僕には聞こえた。

僕はそのまま病院へ戻り、いつものベッドに入った。

 

 

嘘だ。

 

 

ではまた。

 

 

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ALLISTER『Somewhere On Fullerton』

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2009年11月 7日 (土)

垣根涼介『ワイルド・ソウル(上)』

を読んだ。

 

これは久しぶりにめちゃくちゃ面白い小説だ。

まずテーマがいい。南米へ移住した日本人たちの苦労と、当時の外務省への怒り。そしてその復讐。

この南米への移住計画ってのは、戦後、とにかく人口を減らしたかった日本政府が実際に行った“政策”みたいだ。全然知らなかった。この小説を読まなければ、僕はそのことを一生知らずに生きていくところだった。きっとこのことは、僕たちが知っていなければならない事に含まれる。政府の悪巧みは、どんどん世間に広めなければならないのだ。

教えてくれてありがとう、垣根涼介さん。

登場するキャラクターもいい。話の展開の仕方も面白い。文庫本の帯によると、「大藪春彦賞」「吉川英治文学新人賞」「日本推理作家協会賞」を獲っていて、これは史上初の三冠なんだそうだ。読めばそれもうなずける。

さらにこの小説のいいところは、僕が気に入りそうな台詞がたくさんあることだ。そう、伊坂幸太郎の作品のように、登場人物がなかなかいいことを言うのだ。

 

「おれの国じゃあ、金のないやつはないなりだ。服装も住む家もそうだ。それでけっこう笑って暮らしている」のんびりと男は言う。「だがこの国の連中ときたら、どいつもこいつも飾り立て、少しでも自分をよく見せようと躍起になっている。それがまた、貧乏臭い」

~垣根涼介『ワイルド・ソウル』より~

 

ここでの「この国の連中」とは、もちろん僕たち日本人のことだ。僕はこの一文を読んだとき、本当だ、その通りだ、と思った。笑顔がない国とは思わないが、その豊かさをキープするために必死だ。そのために死んだりもする。でも決して水準は落とさない。変な国なのだ。

とはいえ、日本はいい国だと思う。生まれ変わっても日本人に生まれたいと思う。ただその「いい国」と言われることをいいことに、裏で自分勝手やってる奴がいるのはよろしくない。しかもそいつらが、誰かを不幸にしているのであれば、それは決して許されることではないのだ。

誰かの犠牲の上にしか成り立たない平和や豊かさなんて糞食らえだ。

 

ワイルド・ソウル。是非読んでください。

僕はこれから下巻を読みます。

 

 

ではまた。

 

 

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映画『沈まぬ太陽』

を観た。

 

面白かった。

フィクションということになってはいるが、どうやら日本航空で本当にあった出来事を描いているようだ。そのせいで映画化が大変だったと、ニュースで観たことがあったし。

会社の不当人事、航空機墜落事故、かつての仲間の裏切り、不祥事と命懸けの復讐。色々な問題が詰め込まれていた。およそ3時間半の大作だ。

途中で10分の休憩があったほど。さすがに疲れた。正直言うと、後半は疲れてしまって少しどうでもよくなってしまった(笑)ストーリー展開的にも、前半は墜落事故の遺族の話などが多く、目頭が熱くなることがあったのだが、後半は会社の不条理にまつわるエトセトラだったので、どうしても後半の方が退屈になってしまった。

いやしかし、腐った経営者ってのはいるんだな、という感じだ。自分の昇進のためなら何でもする人間もいれば、自分の利益を犯す可能性がある人間に対しどんな手段を使ってでも潰そうとする人間もいる。そんな会社に振り回され続けた主人公が息子に言った、「友達は大切にしろよ」という言葉がとても重く感じられた。

『沈まぬ太陽』。観てみてもいいと思うよ。

ただ、僕は吉祥寺で10時半からの回を観たんだけど、周りはほとんど中年の人だった。土地と時間帯のせいかもしれないけど、もっと若い人も観た方がよい。泣くことが映画を観る目的の人にとっても、その目的を果たせるものになっているよ。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月 6日 (金)

年間49万円

労働時間と報酬の話。

 

ここに同じ業務量の人がいるとする。仮にAさん・Bさんとしよう。

Aさんの残業時間は月20時間で、Bさんは月50時間だとする。

残業代が1時間1500円だとすると、AさんとBさんが受け取る報酬には1ヶ月で4万5千円の差が出る。

1年間ではなんと、54万円の差だ。

これではAさんがかわいそうだ。効率良くやった結果、報酬が人よりも少なくなってしまうのだ。

しかし会社はそんなに酷いところではない。ちゃんとAさんの働きを“評価”しているのだ。報酬は評価に従わなければならない。

年2回のボーナスで調整が行われるのだ。ボーナスの合計を、100万円としよう。

Aさんは頑張ったのでボーナス金額が5%アップだ!やった!

Bさんはアップなし。これで差がぐぐっと縮まるはずだ!

 

Aさんが受け取るボーナスは、100万×105%で105万円。Bさんはそのままで100万円。

Aさんはボーナスで5万円の差を詰めることになる。

通常の報酬の差54万円からボーナスで詰めた差5万円を引くと、49万円。

会社から評価されたAさんは、Bさんよりも49万円少ない報酬を受け取ることになる。

ボーナスアップというのは、結局響きだけがいいのであって、実は何の中身もないものだったのだ。

 

こういう現実は、おそらく存在している。恐ろしいことだ。これでは一体、何を大事にしていいのか分からなくなる。

もちろん管理職でない僕に全貌が見えているとは思わないが。

 

ただ言えることは、会社員にとって効率良く働くということは、効率良くお金を稼ぐという観点でいえば、効率的ではないということだ。

効率良く働いて浮かせたお金は、会社の懐に入るか、あるいは効率良くやらなかった人に入るのだ。決して自分や顧客には還元されない。

 

「効率良く仕事をする人を評価する」という管理職は多いだろう。そういう世の中の流れだ。

でもここでいう「評価する」とは、一体何のことを言っているのか。管理職はそこをはっきりしなければならない。

ただ単に褒め称えるだけか。

相応の金銭的報酬を与えるのか。

昇進させるのか。

「評価する」というのは一体、何に現れるんだ。

 

49万円の差というものを、僕はもっと重く受け止めなければいけないと思う。

僕だって49万円欲しいし。

 

 

※ただしこの話は、「同じ業務量」という前提で労働時間を考えることができた場合の話である。結局業務量なんて見えないから、会社はいくらでも言い訳を作ることができるはずだ。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月 3日 (火)

海堂尊『夢見る黄金地球儀』

を読んだ。

 

あまり面白くなかった。

話としては面白かったと思う。時価1億5千万円の黄金地球儀を盗み出すという。そしてその計画には様々な裏があって、そういった設定も良かった。

でもこの作家は描写が下手なのか、読んでいてもあまりワクワクしなかったし、絵が想像しにくかった。

ストーリー良し、設定よし、キャラクター良し。

だからこそ、なんか残念だった。

折り目もなし。

 

あまりお勧めはしない。

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月 2日 (月)

ダルビッシュと僕

ダルビッシュは左でん部を負傷した。

僕は右肘を打撲した。

ダルビッシュは無理を押して登板した。

僕は無理を押して飲みに出掛けた。

ダルビッシュは下半身を使わないフォームで投げた。

僕は右腕を使わないで食べて飲んだ。

ダルビッシュはカーブを多用した。

僕はフォークを多用した。

 

 

ではまた。

 

 

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肘の番

物事には順番というものがある。

1の次には必ず2がくるように、何かが終わると次の何かが出てくるようになっている。

武蔵境の次には三鷹があり、その次には吉祥寺がある。必ずこの順番で出てくる。

僕は春に踵を大怪我し、それが治ったと思ったら左目を怪我し、またそれが治ったら今度は肘を怪我した。

神様のレシピでは、次はどこを怪我することになっているのだろう。

 

【順番<じゅんばん>】

順を追ってかわるがわるその事に当ること。また、その順序。「―に答える」

~広辞苑より~

 

スポーツを一生懸命やってる以上怪我は仕方ないけど、この調子でちゃんと順番は守ってほしいね。いっぺんに来られたら・・・と思うとゾッとする。 

 

 

ではまた。

 

 

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2009年11月 1日 (日)

様になるってやつ

【様になる<さまになる>】

何かをする様子や、しとげた結果が、それにふさわしいかっこうになる。かっこうがつく。「着こなしが様になっている」

~広辞苑より~

 

たばこを吸う姿が様になる。

スーツ姿が様になる。

ゴールを守る姿が様になる。

 

世の中には色々な「様になる」がある。

僕は最近、特に何かきっかけがあったわけじゃないけど、この「様になる」ってやつが結構大事なもののような気がしている。

例えば昔なら、たばこを吸う人を別にかっこいいとか思わなかったけど(むしろ軽蔑した時期もあったくらいだけど)、今はアリだなと思う。それはその姿が様になっているときだ。たばこを吸うのが様になっている人ってのは、確実にいる。男性にも女性にも。そういうのを見るとき、あぁ、たばこもありなんだな、と思えるのだ。

サッカーをしていてもそうだ。ゴールキーパーとしてゴールを守るのが様になっている人もいれば、フォワードとしてゴールを狙うのが様になっているひともいる。生き方を確立している感じがしていい。あの人はあそこが生きる場所なんだ、という気がしてくる。

そう、様になってるってことは、それをスタイルとして確立させているってことなんだ。そしてそれは、生きてく上で必要なことのような気もする。

何にもすがらずに生きていくことは難しい。だから人は「自分らしさ」というものを作り出す。そしてそれに従って生きていく。様になるっては、それの結果なんだと思う。

たばこが様になる人はたばこを吸うべきだし、キーパーが様になるならキーパーをやるべきなんだ。それがその人なんだ。

自分は何が様になっているか。

考えてみてもいいかもしれない。

僕は何だろう。うーん。思いつかない。

僕にはまだ、スタイルがないのだ。ふにゃふにゃだ。あるいは、迷い続ける、というスタイルなのかもしれない。

 

 

ではまた。

 

 

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