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2009年11月15日 (日)

原点

「お母さんお母さん!鍵ちょうだい!鍵!」

母はお母さん友達とのおしゃべりを中断し、しきりにズボンを引っ張る僕を見下ろしてきた。

「何よ。どうしたの」

「もれる!もれる!」

大か小かも言わず、とにかく早口にそう言うと、母も急に慌てて肩から提げていた小さな布製のショルダーバックに手を突っ込んだ。

「もう!なんでもっと早く言わないの!ていうか幼稚園でしときなさいよ!」

たしかに、と自分でも思うが、仕方ない。だって幼稚園で母の迎えを待ちながら先生が読み聞かせてくれる『エルマーのだいぼうけん』の最中には、その気配はまったくなかったのだから。

ここはもう幼稚園から100メートルは歩いたところだ。幼稚園に戻った方が早いのは間違いなさそうだが、トイレのために戻るのもかっこ悪い。これは母と僕の共通認識だったのだろう。母も、幼稚園に戻ってしてきなさい、とは一度も言わなかった。

「早く!早く!」

「はいはい。もう、ちょっと待ちなさい」

僕がお腹を押さえながらもぞもぞとしていると、母がやっとバッグから引き抜いて鍵を渡してきた。僕はそれを奪うように取り、「一人で先に帰るから!」と言って猛ダッシュした。これじゃ迎えに来た意味がない、と母が思ったかどうかは知らない。

26歳になった今、猛ダッシュの道中の記憶はない。そこだけはポッカリと抜け落ちている。もしかしたら信号無視をしたかもしれないし、さすがにバテて途中で歩いたりもしたかもしれない。途中にいる獰猛でおっかなかったシロという犬も、もしかしたらその時だけは気にならなかったかもしれない。

記憶はここからまた始まる。

やっと家に着いた。鍵はしっかり手に握られている。もうヤツはすぐそこまで来ている。

鍵を鍵穴に入れる。入れようとする。入らない。焦る。そしてまた、焦るがゆえに、入らない。ヤツが迫ってくる。入った!鍵を回す。ガチャと心地いい音がする。ドアノブを掴み、力いっぱい引く。体を玄関の中に入れる。ドアは閉めない。それどころではない。くつは一応脱ぐ。脱ぎ捨てる。勢いあまってクツの片方がドアの隙間から外へ飛んでしまう。もちろんそれに気づくのはもっと後のことだ。玄関のすぐ横にあるトイレのドアノブを掴む。また思いきり引く。またしてもドアは開けたまま、ズボンとパンツを一気に下ろす。便座に座る。ヤツが待ってましたといわんばかりに飛び出す。僕はホッとして白いブリーフを見下ろす。そしてそこにある茶色を見て笑う。

間一髪、アウトだ。

 

 

過去は変えられない。

いくらいい高校や大学を出ていい会社に入ったとしても、僕の人生はこれまでも、そしてこれからも、クソガキ ―まさにクソガキ― の延長線上なのだ。

気楽なもんだ。

 

 

ではまた。

 

 

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