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2010年1月19日 (火)

同じ男

一日の仕事を終えて、いや、正確には、今日やるべき仕事を明日に持ち越すことを決めて、10階のフロアを出た。ICカードを読み込ませ、自動ドアをくぐる。朝買って一日かけて飲んだ、500mlのミネラルウォーターが入っていたペットボトルを脇にあるゴミ箱へ捨て、階段へと入る。

そこで一人の男を見かけた。

黒いスーツに黒い靴。黒いコートに黒い鞄。黒い髪にはべっとりとジェルがつけられ、オールバックをきれいに固めていた。社員なのか出入りのある取引先なのかは分からない。分かるのは、その男が少し先の階段を降りているということだけだ。

男との距離を一定に保ちながらエントランスのある2階まで降り、外へ出た。外は冬とは思えないような、湿気を帯びた肌に纏わりつく空気が漂っていて、どこか雨の匂いがした。もちろん雨の匂いというのは正確な表現ではない。正確には、雨に濡れたアスファルトの匂いとか、雨に濡れた土の匂いとか、そういうべきだろう。いつの間にか男は前からいなくなっていた。

会社のビルから最寄り駅までの道は、いつになく空いていた。これが1ヶ月前はクリスマスのイルミネーションを見に来る人々で賑わっていた街の風景だ。人間の細胞が日々違うように、街も1ヶ月ですっかり姿を変える。

そんな街の中に、男を見た。

黒いスーツに黒い靴。黒いコートに黒い鞄。黒い髪にはべっとりとジェルがつけられ、オールバックをきれいに固めていた。ぴんと伸びた背筋に大股の歩行。周囲よりもあからさまに速い歩みで、男は駅の方から来て、すれ違った。

駅の構内に入るとそこには、大学生だろう、若い男女が所々で輪を作っていた。

そんな輪の中に、男を見た。

黒いスーツに黒い靴。黒いコートに黒い鞄。黒い髪にはべっとりとジェルがつけられ、オールバックをきれいに固めていた。男は誰と喋るともなく、ただそこに立っていた。話しかけられれば愛想笑いを浮かべ、話しかけられなければただ足元に視線を落として集団の移動を待つ。それはまるで、親戚の家に連れて行かれた子どものようだ。いい加減帰りたいのに、親が帰らないから帰れない。

電車の中はサラリーマンと大学生と高校生がいた。他にもいたのだろうが、まとめるならそれだけということでいいだろう。朝も同じような時間な電車に乗り、帰りも同じような時間の電車に乗る。電車に乗る人間に個性なんてものが不要であることがよく分かる。もちろん、腕立て伏せにも個性は不要である。

電車が下りるべき駅に着き、電車を降りた。ホームから改札へと上がる階段を上っているとき、目の前に古い友人を見かけた。正確には、古い友人と思われる人物、だ。話しかけることもしなければ前に回り込んで顔を確認したわけでもない。だから実は全く知らない人だった、ということもありえるというわけだ。いや、顔を確認したところで、一体誰がその人物が確かに古い友人であると証明できるのであろうか。その人物は他のホームへ降りる階段へ向かった。

改札を出てバス停に向かい、バスに乗った。バスはこの時間には珍しく込んでいて、座席は空いていなかった。鞄から文庫本を取り出し、文庫本をちょうど読み終えたところで、目の前の座席が空いた。

そこに座った瞬間、男がバスに乗り込んできた。

黒いスーツに黒い靴。黒いコートに黒い鞄。黒い髪にはべっとりとジェルがつけられ、オールバックをきれいに固めていた。男は僕のすぐ横に立った。そして僕に、こう言った。

 

 

「もう気づいてるんだろ」

 

 

 

 

 

嘘だ。

 

ただ、こういった場合、あの男は同一人物なのか、あるいはまったく違う人物なのか、あるいはドッペルゲンガーなのか、一体どうやってそれを証明できるのか。同一人物ではない、という証明は、物理的に無理、という言葉を以ってすることができるかもしれないが、この「物理的に無理」というのは一体どういうことなのか。物理的限界を証明せずに使える言葉ではないはずだ。将来、瞬間移動が現実的なものなった場合、一体どれほどの冤罪が立証されるのだろうか。

そしてこれは、一体何の話なのだろうか。

 

 

ではまた。

 

 

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