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2010年2月

2010年2月28日 (日)

コンビニ店員のプライバシー侵害

先ほど、夕飯を買いにコンビにへ行きました。

栄養ドリンクと野菜ジュースとお惣菜と、明日の朝食用にパンを2つほど持って、レジへ行きました。

レジにいたのは中年ほどの男性店員で、首から商品の発注に使う機器をぶら下げて、熱心に発注数の入力に打ち込んでいました。

僕は「お願いします」と言って、レジに商品を置きました。

店員さんはストラップをぶりんとやって機器を背中側に回すと、両手を股間の前で重ねて、「いらっしゃいませ!」と叫びました。

そう、それは叫びでした。おそらく店内にいた3人のお客さん全員に聞こえるほどの叫びでした。

そして店員さんはその声の調子で、商品のバーコードをスキャンしながら、「120円が一点!」とか、「250円が一点!」とか、全商品の値段を叫び続けました。

おそらくマニュアル通りの行動。バーコードをスキャンする際は、確認の意味も込めて値段を声にも出すようになっているのだと思います。そういえば僕もコンビニでバイトをしていたときにそう習った気がします。やっていませんでしたが。

でも僕はその大声がとても不愉快だったので、「おい、そんなデカイ声で言う必要ないだろ。誰に言ってんだよ。俺にだけ聞こえればいいんじゃねぇのかよ。それをそんなデカイ声で言いやがって。プライバシーの侵害じゃねぇか。俺が買ったものをみんなに公表したいんか?それともなんだ?裏に社員でもいるんか?そいつに聞こえるように言ってんのか。ちゃんとやってますよ。やる気ありますよってアピールか。大体よ、最近のレジはこっちからも値段の表示が一点一点見えるようになってんだよ。だからさ、もはや声に出しての確認なんて必要ないわけ。必要なのは目が見えない人だけだな。俺はばっちり見えてるからもう全然いらない。そういえば目が見えないって表現はおかしいな。大体俺が見てるものって目以外なのにな」と言いました。

店員さんは言いました。

「合計802円になりまーす」

 

 

 

 

 

嘘です。

ちなみに僕は、もらったレシートを「いらないレシートはこちらへ」ゾーンに入れてしまう人間です。

プライバシーの保護を主張する資格なしっ!!

 

 

ではまた。

 

 

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北村薫『夜の蝉』

を読みました。

 

なんか推理小説らしいのですが、あまり面白くなかったです。

BOOK OFFで105円で買ったものだから別にいいんですけど・・・。

別にお勧めはしません。

なのでストーリーとかも紹介しません。

じゃあ書くなよってか。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月27日 (土)

説教が効果を発揮する条件

Vs2010 説教は、するのもされるのもあまり気持ちのいいものではありませんね。

でも何で説教が存在するかというと、必要だからですね。

それはつまり、教育という側面においてのみ説教は効果的であり、存在意義があるということです。

だから説教には、効果が付き纏わなければなりません。

 

ではいつも説教は効果的でしょうか。

違いますね。何も生みださない説教、山のようにありますね。

例えばミスをしたA社員を呼び出して、「お前はいつも注意散漫なんだよ!もっと慎重にやれ!」などと説教したところで、きっと何も変わりませんね。いやむしろ、上司に怯えて余計に生産性が落ちる可能性すらありますね。

逆効果の説教もある以上、説教とは状況を見極めて、正確に行わなければなりません。

 

では説教が効果を生み出すのはどういう時なのでしょうか。

一つは、説教される人(「被説教者」とでもしておきましょうか)が、確実に悪いことをしていることです。悪いことなどとは実に抽象的な言葉ですが、僕の語彙力の欠如によるものなので許してください。犯罪とか仕事上のミスとか、そういった類のことを犯した人間と思ってください。もし被説教者が悪いことをしていなければ、説教は何も効果を生み出さないし、被説教者からすれば、「は?何でそんなこと言われなきゃいけないの?」とか「俺やってねぇし!」みたいなことになって、むしろ反感を買ってしまい、損こそすれど、誰も得はしません。

あるいは、被説教者が悪いことをしていても、それを自覚していない、あるいはできていなくても説教は効果を生み出せません。そのためにはまず、被説教者に、被説教者の犯した悪いことについて自覚させる必要があります。それが叶った時に限り、その後の説教が効果を生む可能性を持ちます。スカートめくりをした少年にはまず、「スカートめくりは、女の子が嫌がるから悪いことなんだよ」と教えなければならないのです。「そうなんだ。分った」と少年が悟ってから、「分ったかよ、このクソガキが!分ったら二度とするんじゃねぇぞ!」と説教しなければならないわけですね。えー、今のは説教ではありませんね。

 

以上のように、とりあえず説教というものを発生させる条件としては、被説教者が悪いことをしており、それを悪いこととして自覚していることが必要ということです。

 

ではこの条件が整っていれば説教は必ず効果を生み出すでしょうか。

違いますね。全然違いますね。今と12年前のモーニング娘。くらい違いますね。

ここからは、効果を生み出す条件というよりも、効果を生み出す場合というもので考えてみたいと思います。

 

まず一つ目。

説教者が、被説教者の犯した悪いことに対して、論理的に説教できている場合です。「あなたがやったことは×××という悪影響を及ぼす。好影響を及ぼすことは全くない。だから改善する必要がある。改善するには、○○○することが必要だ。そうすると、△△△というように状況は好転する。なお、改善に伴うあなたの負担は●●●だが、メリットと比較した場合に、その負担は大きいとは言えない」というような感じだと思います。こんな言い方されたら腹立ちますが。論理的というのは、相手の理解のプロセスに立って説明するというようなことです。一方的に価値観を押し付けても相手には理解できませんし、ましてや感情で押し切るなんて愚の骨頂です。人間が言葉を覚えたメリットの一つです。被説教者は相手の言っていることが理解しやすいので、改善の行動も生まれやすいと想像できます。

 

二つ目。

被説教者が説教者に大きな信頼を寄せている場合です。説教の中にはどうしても論理的にできないものもあると思います。ルールとか文化とか、そういったことの違反に対する説教がそうなりがちです。でも説教をしなければならないことはあります。小さい子どもへの説教なんて、ほとんどがそうなのではないでしょうか。彼らのなんでなんで攻撃に論理で答えてたら、気が付けば地球は氷河期に突入していることでしょう。そういったとき効果的な説教を生み出すためには、被説教者が「この人がこう言うのだからそうなのだろう」と思えることではないかと思います。ここは論理ではありません。「俺の経験上では×××だから、○○○した方がいいぞ」「分りました!」という感じ。「ダメなものはダメ!」「はいっ!」という感じ。なんかアホっぽいですが、確実に存在し得る説教の形だと思います。

 

三つ目。

制裁を伴う場合。・・・これを説教というのかどうかは議論の余地がありますが、実際に「説教」と認識されているものの中には、制裁に効果を生み出させているものもあるでしょう。「次ミスったらクビだぞ!」とか、「次やったらお菓子抜きだからね!」という感じです。もう脅しですね。あ、でも心理的制裁というのもありそうです。「こんなこともできないの?今年入った新人はもうできるわよ」みたいな侮辱により、その後の改善を強制させるような場合。これを心理的制裁と言っていいのか・・・。でも侮辱は一種の制裁のような気がするのでこう分類してみましょう。

 

さて、これ以上に効果的な説教を生み出す場合はあるのでしょうか。

もう僕には思いつきません。ていうか飽きました。

 

納得のいかない説教はなくなりません。どうしても存在してしまいます。なぜなら人間は完璧ではないからです。なんだそれ。

本当は納得のいかない説教に思い切り反発できればいいのですが、そんな説教にもいちいちへこんだりしてしまうので、それを思うと、僕はそういう説教者にはなりたくないのです。死んでもなりたくないのです。

だからちまちまと考えてみた次第です。

 

そう思うと、僕のROONEYSにおけるリーダーシップスタイルの変化にも関係がしているような気がしました。

説教なんて偉そうなものではありませんが、初期の頃(7年半前くらい)には、メンバーにフットサルのこととか、組織運営のことであれこれと、感情も大いに混じえて喚き散らしていました。それでも何とか存続できていたのは、人数が少なかったこともあり、また、付き合いが長い(それこそ高校のテニス部時代に僕が部長だった頃からの)メンバーもいたから、つまりは多少なりとも信頼されていたから成り立っていたのだと思います。

そして今僕があまりそういう風にしないのは、かつてのそれが通用しなくなったからです。大げさに言えば、初対面の相手に説教したところでどんな効果も生み出せないということです。例えばルールについての説教なら初対面の人にもできますが、ROONEYSの理念とかフットサルの戦術のようなことについては論理ではなかなか難しいところがあるので、「信頼」が必要になるのです。

僕は大学時代、リーダーシップスタイルは、メンバーの成熟度によって変化させるべきということを考え(これを主張している学者はもちろんいます。僕のオリジナルなんかじゃないです)、そしてメンバーの成熟度は組織への愛着度と相関関係にあり、さらに愛着度は所属年数と相関関係にある、というようなことを実体験を入れ込みながら卒論に書きました。そして今、きっとこれは、リーダーへの信頼関係とも相関のあるものだと思い至りました。僕の卒論はなんて活用できるものなのでしょう。当時の僕の悩みを解き、そして今、クソ26歳になった僕のクソみたいな悩みを解こうとしています。話が反れました。僕の卒論の素晴らしさはどうでもいいんです。

信頼と説教の話です。

特にROONEYSのような非営利組織においては、フォロアーのリーダーに対する信頼度のようなものは、けっこう気を使った方がいいのだと思います。でないと、説教に限らず、効果的なコミュニケーションはできないと思います。

 

なるほど、自分で書いてて勉強になりました。

会社員になってよかったことはこういうことです。

会社員にならなければできなかった体験ができ、それらの体験を違う場合に当てはめて疑似体験することで、これからの人生に還元できます。僕でいえばROONEYSとかに。

ビバ、サラリーマン。お給料をありがとう。

 

 

またあれこれ書きましたが、とにかく気をつけた方がいいのは、どんなものにも逆があるということ。メリットとデメリット。作用と反作用。あんことうんこ。

作用と反作用のように、説教においては効果と逆効果が必ず同時に存在するわけではないと思いますが、効果が生まれずに逆効果が生まれる可能性はあるということです。

特に説教は、実に心理的で繊細で相互性の高いものだと思うので、些細なことで順と逆が入れ替わってしまうのだと思います。

 

【説教<せっきょう>】

①宗教の教義・趣旨を説き聞かせること。教理を説いて人を導くこと。「牧師の―」

②訓戒すること。また、堅苦しい教訓的な話。「先生に―される」

~広辞苑より~

 

 

最後に、説教をただ単に「怒ること」と考えている人へ。

「お前はすでに逆効果を生み出している」

 

Photo  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ~。

「効果」を「良いこと」という意味で使ってしまっている・・・。うんこだ。

何でこんなうんこうんこ言うかっていうと、お腹が痛いからなの。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月23日 (火)

左とか右とか

左手とか右手とか、左足とか右足とか、左目とか右目とか、左のやーつとか右のやーつとか、僕たちは「左」や「右」という言葉を、すごくスムーズに上手に使っていますが、この前ふと思ったんですけど、「左」とか「右」って、一体なんなのでしょう。

例えば「左」とか「右」とかを知らない人に、「左」とか「右」という言葉を使わずに説明できるでしょうか。何か具体的な場面を持ち出して、「こっちが左で、こっちが右」というように示さないとダメな気がします。

あるいは、無理やり言葉だけで説明するなら、「北を向いているときの西が左」とかでしょうか。

でもそんな説明では結局、左とか右って何なのさ、ということになってしまいます。

 

【左<ひだり>】

①(端・へりの意のハタ・ヘタが転じた語か)南を向いた時、東にあたる方。

②昔、左右に分れた官職の左の方。

③(酒杯は左手に持つからとも、また鉱山で、左を鑿手、右を鎚手というのにおこるともいう)酒を好み飲むこと。左党。

④(思想上・政治上の)左翼。

⑤左前の略。

~広辞苑より~

 

【右<みぎ>】

(ニギリ(握り)の転か)

①南を向いた時、西にあたる方。

②(漢代、座席を右の方を上としたことから)上位。上席。

③転じて、すぐれた方。

④昔、左右に分れた官職の右の方。通常、左より下位であった。

⑤縦書きの文書類で、前条を承けていう語。2ヵ条以上を承ける場合は「以前」と書いた。

⑥以前。もともと。最初。

⑦(思想上・政治上の)右翼。

~広辞苑より~

 

やっぱり方角に頼るしかないのですね。

 

でも、僕は今、北を向いた時に西側にある腕を左腕と読んでいますが、もしそれよりも西側にもう一本腕が生えてきたら、「左腕」はたちまち左腕ではなくなるのですかね。中腕とか?

要するに相対的なものなのですね。左とか右ってやつは。

 

だから何だって感じですね。

 

別に意味はないんです。本当に。ただ、「左」と「右」の概念に気づいた人、すげーなって。

「上」と「下」も。

まだ発見されていないそういうの、他にないですかね。

見つけたらノーベル賞もらえるかな。

ノーベル平和賞。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月21日 (日)

憲法を変えていいなら、初めから憲法なんていらない

先に言っておきます。

僕は今、酔っ払っています。

だから許してください。

 

僕には昔から悩みがあります。いつからの悩みかははっきりとは分かりませんが、悩みです。それは、僕が恐れられる存在になってしまう、という悩みです。

自覚はあります。「なんでそうなってしまうのだろう?」などと愚かなことは思いません。でも、僕は、恐れられるのを望んでいるわけではありません。だからこそそれで悩むわけですが。

僕はよく、丁寧語を使われます。年下ならまだしも、たまに、同じ歳の人や、年上からも使われます。それはなぜかというと、僕が偉そうだからです。あまりに偉そうだから、当てつけとして、丁寧語を使われることがたまにあるのです。

僕が、主張すべきことを主張した結果、それを相手に理解されなかった時などによく丁寧語を使われるのです。

僕はそれがいつも悲しい。そんなつもりで言ってるのではないんです。僕はおかしいことはおかしいと言いたいだけなのに、人は批判されると極端に態度を変えてしまうものなんです。それはもう、この歳になってある程度は分かってはいますが、でもやはり、辛いです。主張する度にそんな態度を取られたら、辛いんです。

でも僕は、辛いなんてことを言えません。僕は、僕が取るべき態度を取り続けなければならない。

一体、誰に「辛い」なんて言えるのでしょうか。いや、ある意味ではここで言ってしまっているのですが、ここで言うことに、一体どれほどの意味があるのでしょうか。僕はここでの発言は、あくまで独り言と捉えています。

 

話が反れました。

 

僕は、もっと上手い言い方を覚える必要があるのだと思います。“社会人”ってやつが好きな言葉を使えば、コミュニケーション能力の向上ってやつです。相手に不快感を与えず、卑屈にさせずに、自分の考え方を伝える。そういう能力が僕には必要なのだと思います。そしてそれは、僕が最も苦手としていることの一つなのだと思います。思ったことをそのまま言うことの美徳を信じていた時があったので・・・。

 

一体これは何の話なのでしょう。

僕が真剣に悩むことは、ROONEYSのことです。

今日は練習後に何人かのメンバーに付き合ってもらって、色々な話をしました。もちろん真面目な話ばかりではありません。基本は、「彼女が欲しい」という話です。

でも僕にとって最も重要だったのは、「今のROONEYSはどうか」ということです。

「前の方が良かった」という声は、さすがに僕にはこたえました。

とはいえ、僕も今の状態がベストだとは思っていませんし、問題点はあると思っています。だからこの声をあげたメンバーの気持ちは分かりますし、なるべく彼の声には応えたいと思っています。

ただここで悩ましいのが、全員の希望を叶えるのは、やはりどうしても難しいということです。

例えば、ROONEYSは2,3年前に比べてレベルが上がったと思いますが、それでは技術的に劣る人たちの満足が下がります(あえて「満足」などというしょーもない言葉を使っています)。でも一度上がったレベルを下げるのが不可能なのも事実なのです。これは、本当の意味で不可能。レベルの高い人を排除しない限り、不可能なのです。

他にも、飲み会だけが楽しみとか、フットサルだけが楽しみとか、色々な希望がある中で、全員の希望を叶えるのは、やはり不可能です。理想は、それぞれの理想に叶ったクラブが全国各地に存在していることですが(そうすれば全ての人は、それだけでクラブを選ぶことができます)、それもやはり難しいです。

だから僕は、なるべくROONEYSにしかできないことをやりたいと思っています。

他所でできることなら、何もROONEYSでやる必要はない、とは若干ではありますが、思います。

じゃあROONEYSで何をやるかというと、ものすごく抽象的な話で、しかも理想論的な感じになってしまいますが、「ROONEYSは楽しい」と思えることなのです。

「試合に勝つ」でも「上手くなる」でも「友達を作る」でもなく、とにかく「ROONEYSにいることが楽しい」。その上で、先に挙げたものがでてくる。

フットサルが上手くても下手でも、お酒が飲めなくても飲めても、おっさんでも高校生でも、みんなが楽しいと思えるところを目指したいのです。

分かってます。いつかこんなきれい事が通用しなくなることは。いつか組織として、何らなかの判断が必要になることは。

でも僕は、理念とはそういうものだと思います。

あらゆる条件を無視してでも語れるもの、それが理念であり、僕がROONEYSを作ったときの理念は、「クラブの永久的継続」と「スポーツを楽しむ」でした。これを、障害を理由に変えるなんてありえません。憲法九条は現代の社会情勢に合わない、などとほざくアホどもの主張くらいありえません。

 

僕はそれこそ、高校までは色々な人をスポーツから排除したい欲求で溢れていました。

「お前にスポーツをやる資格はない」

というような感じです。

その反動から、今では僕がいることでスポーツを好きになる人が一人でも増えればいいと思っています。だから僕は、上手いとか下手とかを超越したクラブを作りたい。

そう思えば、規模はどうでもいいのかもしれません。僕はいつまでたっても小さい人間なので、ちょっと油断すれば組織の拡大を考えてしまいますが、実はそんなことは全く重要ではないのです。

ROONEYSでフットサルや飲み会や、その他何でもいいのですが、とにかく人生を楽しみ、生きていて良かったなぁ、とか、これからも生きていたいとか、そういうことをちょっとでも思ってもらえたらいい。

そのためにも、僕は絶対にROONEYSを存続したい。存続しなければ何も生み出せない。ROONEYSで楽しんでいた人を裏切ることにもなる。だから僕は、存続こそが第一優先だということは、いつでも考えている。

もしROONEYSの存続を脅かすものがあるなら、僕はそれを絶対に排除する。絶対にだ。

 

こんなことを言っていると、気持ち悪いと思うでしょう。たかがフットサル。プロでもなければ、それで生計を立てているクラブというわけでもない。

でも、だから何だというのだ。

人生で大事にしたいことに出会えた。

それだけで、僕には十分だ。

 

お前には一体、何があるんだ。

 

色々あるけど、僕はROONEYSの可能性だけは信じることができる。会社はいつか潰れると思うけど、ROONEYSは潰れないと思う。

だって考えてることが継続だから。成長ではない。人を苦しめるだけの成長ではない。

こういう自分の主張を所々に入れてしまうのが僕の悪いところです。

 

最初のテーマからだいぶ反れてしまった感じがしますが、何が言いたいかというと、僕がいくら批判されても、嫌われても、丁寧語を使われても、僕は僕の理念は曲げない。戦うべきものとは、戦い、絶対に負けないということです。

アホです。

うるせえ!

 

 

 

 

あ~あ。

大体こんな感じになってしまうよ。

 

 

ではまた。

 

 

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zebrahead『Into You』

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電車の席の座り方

ブログネタ: 電車で優先席しか空いてなかったら、座る?参加数拍手

 

僕は基本的には電車に乗ったとき、席には座りません。

なぜなら、譲るのが面倒だからです(笑)

明らかに譲った方がいい人ならただ譲ればいいだけなのでいいのですが、中には譲ったら失礼になるのか?と思われる人もいたりして、その判断が面倒なのです。断られたときのガッカリ感もあまり気持ちがいいものではありませんし・・・。

だから僕は初めから座らないようにしています。

だから当然、優先席しか空いていないなとどいう状況は関係ありません。他に席が空いていても空いていなくても、優先席には座りません。

 

ただ僕もたまには席に座ります。

まず一つは、めちゃくちゃ疲れている、かつ空いている時。これは座ることもあります。

あともう一つが、誰かといる時。さすがにそこは人に合わせて、僕だけ立つようなことはしないようにしています。

このいずれかの状況下だったら、優先席しか空いていなければ、僕は優先席に座るかもしれません。

 

あ、席に座らなくなったもう一つの大きな理由があります。

それは、人間の醜くさを見たからです。

ドアが開いた瞬間に、降りる人を待たずに空いている席に向かって早歩き。

僕はこういう人を見ると(わりと頻繁に見掛ける・・・)、「俺は絶対にこうはならない」と思ってしまうのでした。

 

 

ではまた。

 

 

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加藤清四郎君の起用に見る日本人の品

子ども店長でお馴染みの加藤清四郎君ですが、最近ちょっと彼の使い方について疑問を持ち始めました。

というのも、彼の人気にあやかって、ちょっと言い難いことも彼が言えばきれいな言葉に聞こえるのではないか的な意図があるような気がしてくるからです。

例えばこのCM。

 

 

「コツコツ積み立てしましょう」なんてメッセージを小2の子どもに言わせるなんて、なんか僕はズルい気がします。本来であればそのメリットなどを例え一言でもいいから伝えるべきなのに、なんとなく歌とダンスと加藤清四郎君のキャラクターで誤魔化しているように感じてしまいます。品がないように、僕には思えるのです。

 

しかし僕がもっと驚いたものがあります。

それがこの、警視庁のポスターです。

 

Photo  

「おじいちゃん!おばあちゃん!守ってね、交通ルール!」ですよ。

もう僕は呆れています。何言わせてんだ警視庁は、という感じです。

気持ちは分かります。お年寄りの交通事故のほとんどがお年寄りに原因があり、それがきっとなかなか減らないのでしょう。でも、お年寄りは、ルールが守れないのです。

例えば横断歩道のないところで道路を横断するのは、横断歩道のところまで歩くのがしんどいからでしょうし、視野が狭いとか判断が遅くて事故になることが多くなるのもある程度は仕方のないことです。

本来であれば、子どもには、お年寄りは道路で困っていることがあるから助けてあげましょう、という教育をするべき。なのに、その子どもにこんなメッセージを言わせるなんて。もちろん、彼が実際に発した言葉ではありませんが、あのポスターを見れば加藤清四郎君が言ったも同然です。あのポスターを見るお年寄りはどう思うのでしょうか。

僕から見ると、あれはかなり品がない。日本の警察は、品がないのです。

 

加藤清四郎君が悪いわけではありません。でも彼の「作られたかわいさ」を見ていると、なんだか気持ちが萎えます。「何でもありの日本」という言葉が脳裏を過ぎるのです。

やれやれ、です。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月20日 (土)

映画『蟹工船』

をDVDで観ました。

 

正直、そんなに面白くなかったです。

蟹を捕獲し、船内で缶詰にする漁船(工船)で働く水夫たちが、その酷い扱いに対してストライキを起こす話。どうやら事実に基づいたもののようです。松田龍平が主演しています。

事実としては、こんなことがあったのか、と興味を持ちましたし、憤りも感じましたが、映画としてはイマイチです。なんでかと言われるとちゃんと答えられませんが、特に引っ掛かるところが一つもなかったのです。

特にお勧めできる映画ではありません。

 

 

ではまた。

 

 

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垣根涼介『真夏の島に咲く花は』

を読みました。

 

かなり面白かったです。

南の島国フィジーを舞台にした小説で、フィジー人と日本人、インド人、中国人の若者たちがとある暴動を一つのきっかけに民族問題に揺れる物語でした。

陽気でビジネスに向かないフィジー人。

勤勉な日本人と中国人。

人口を増やし、フィジーにおける地位をますます高めていくインド人。

日本にいるとほとんど日本人としか接しないのであまり民族問題を感じることはありませんが、色々な国や地域の出身者たちが集まる国では様々な差別や嫉妬があるのだなと思いました。

それに、それぞれの人種には向き不向きがあり、それは時に差別の対象になったり搾取の対象になってしまいますが、本当はお互いが尊重し合い、特徴を活かした生き方ができればいいのだと思いました。

でもそんなのは理想論なのだとも思います。

たとえば資本主義のもとではやはり難しい。ビジネスが上手い人にビジネスが下手な人は簡単に負け、職を失う。努力すればいい、などと言うのは簡単ですが、国に根付いた国民性とか文化とか習慣というのはそんな簡単に越えられないものなのだと思います。徐々に変えることはできても、根本的に変えるのには膨大な時間がかかります。

だから僕は思うのです。

国際化なんて、やっぱりやめといた方がいいんじゃないかって。

自分の国の考え方を他の国に押し付けて、それで相手の国が豊かになったとか喜んだところで、それは一方の価値観に基づいた豊かさであって、一方的自己満足に過ぎない気がします。

何が豊かさなのか。

何が幸せなのか。

それを押し付けることなんて、誰にもできないはずです。そうあるべきです。

 

この小説はそういったことを考えさせてくれる、とてもいい小説だと思いました。

是非紹介したいところがたくさんあるので、雑に羅列します。

 

 良昭もサティーも日本人、インド人という人種の違いはあれ、広い意味では文明圏共通の価値観を持つ人間として一括りにされる。勤勉であること、約束を守ること、お互いに助け合うこと、などなどを美徳として捉える価値観だ。

(中略)

 しかし最近になって、ようやく分かってきた。

 それらの約束事は文明圏共通の美徳ではあっても、人類共通の美徳ではない。

 勤勉であること。約束を守ること。お互いを助け合うこと。それらの根底にある思想は、飢えへの恐怖だ。飢えを知るからこそ、勤勉さと相互扶助の精神が尊ばれ、さらにその関心が効率的な生産活動や食料備蓄という側面にまで高まってきたとき、重要な約束事や貨幣経済が生まれる。

 つまり、これらの美徳は、飢えへの回避という要因から発した後天的なものに過ぎない。

 だが、働かなくても道を歩けば食べ物はいくらでも転がっている社会では、勤勉さや約束遵守の精神はそれほど求められない。

 自分たちが物心ついたときから人類共通の美徳として信じきってきた価値観など、それだけのものに過ぎないのだと感じた。

 

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 どうして空を見ることが好きなの。先生は聞いてきた。

 分かりません、とチョネは答えた。またみんなが笑った。妙に悲しかった。

 自分が好きなことを笑われるのは悲しいものだということを、そのとき初めて感じた。

 

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 今を犠牲にして将来を取るのか。それとも今を楽しんで、将来は貧乏でもいいと覚悟を決めるのか。そもそも、そんな後か先かでの人生の損得を考えること自体、おかしいことなんじゃないだろうか。

 生きることは、損得勘定ではないんじゃないかな。

 

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 彼はこう言った。

 楽園は、周りの人間と作り上げていくものだよ。場所なんかじゃない。そしてその人間関係がもたらす心の風景だ、と。

 

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「お金。お金がすべてなんだよ、今は」ラトゥは言った。「大昔はそんなもの必要なかった。お金がなくても、みんな楽しそうに生きていた。わしが子どもだった五十年前は、まだそうだった。テレビがなくても、みんなで砂浜に出ていろんな話をした。ラジカセやCDデッキがなくても、みんなで歌を唄えばよかった。クルマやバスがなくても、そのぶん時間をかけて歩いていけばいいだけの話だった。お金がなくても、みんな幸せだった。でも今は違う。みんな、お金に心を縛られている。いつの間にかそんな世の中になったよ。(後略)」

 

~垣根涼介『真夏の島に咲く花は』より~

 

 

僕たちはもっと焦点を近くのものに合わせる必要があるんじゃないかと思います。

隣の人の幸せを願い、今の自分の幸せを願う。

今の自分を認め、隣の人を認める。

僕にはどうしても、10年後の自分を想像することが大事なことのようには思えません。隣の不幸を無視して外国の不幸を助ける気にはなれません。

だから真面目に成長していこうとする会社にいると、たまに酷く疲れます。

なんで最後会社の話になってしまったのでしょう。

 

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それにしても垣根涼介はいい作家です。僕はすっかりファンになってしまいました。大体2つくらいずきゅんとくる作品があれば、僕はファンになります。『ワイルド・ソウル』と『真夏の島に咲く花は』で、僕はすっかりはまってしまいました。

とりあえず垣根涼介全作品読破します。

 

 

ではまた。

 

 

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ばんく~ば~

Photo_2 高橋大輔やりましたね。フィギュアスケート男子初のメダル獲得。見事な銅メダルだと思います。逆に織田は残念でしたね。まさかの靴紐切れ。でもインタビューを聞く限り、切れそうなのは知っていたようですね。悲しいですが、自業自得としか言いようがないですね。道具の管理はアスリートが最も大事にしなければならないことの一つですから。なのでこれは「運がなかった」ではなく、「実力がなかった」ということになるでしょう。

 

これまで観てきて一番面白かったのが、何と言ってもスノーボードクロス男子ですね。あんな狭いコースを4人が同時に滑るので、これぞデッドヒートというレース展開がたくさん生まれます。接触ありジャンプありクラッシュあり。テレビで観るスポーツとしてはかなり楽しい種目だと思います。

 

そうそう。一つ気が付いたことがあるのですが、今大会に限る話なのかどうか分かりませんが、男子が女子よりも先にやるんですね。例えばスピードスケートの500mだとしたら、まず「スピードスケート男子500m」の予選・決勝が先で、「スピードスケート女子500m」が後なんです。

僕はこれがもったいない気がしてなりません。大体の競技において、男子の方が女子よりもハイレベルです。それは身体能力という点で圧倒的に差があるからです。だから女子よりも男子の方がダイナミックな動きとなります。その男子の後で女子が競技を行うとどうなるかというと、女子のレベルが余計に低く見えるようになると思います。スピードスケートであれば、男子のスピードに慣れた目が、女子のスピードを現実のそれ以上に遅く見せてしまう気がしてならないのです。これはもったいない。これが逆なら、女子のレベルが必要以上に低く見えることはありませんし、後から行う男子は逆にレベルが高く見えます。これぞWIN-WINの関係なのではないでしょうか。

もちろん競技によって男子の人気が高かったり女子の人気が高かったりするので、プログラム構成はそういったことも考慮されているのだと思いますが、良く見せるための工夫としては基本的には女子が先であるべきだと、僕は思います。

 

では最後に。

 

冬季オリンピックの金メダリストと掛けまして、

ハリセンボンと解きます。

その心は、

滑るのが上手です。

 

お後がよろしいようで。

 

 

ではまた。

 

 

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再校と入稿と待機

僕はサラリーマンです。会社から、労働の対価としてお金をもらっています。

会社からお金をもらっていると言うと、「お前はお客様からお金をもらってるんだ!」と批判する人がいるかもしれませんが、いくら社員がコストダウンしても、お客様が払うお金が減らない上に、社員の給料も上がるわけではない以上、給料は会社からもらっていると言わざるをえません。

 

あ、話がいきなり反れました。

僕は会社から給料をもらっているので、それはあくまでも対等な契約な立場とはいえ、やはり会社の規約や社会のルールに縛られることがあります。

僕はそこに不満はありません。そこは、僕が選んだ道として納得することができます。もちろん、社会のルールだからといって、あるいは会社の規則だからといって、死ねと言われて死ぬようなことはしませんが、常識の範囲内であれば僕は従う覚悟があります。そんなことはちゃんと学生時代に、スポーツビジネスの道を、給料が安いということを理由に断念した時点で覚悟しているわけです。

でも、こんな僕でも、我慢できないことがあります。

規則やルールに縛られるということは、いわば行動に制約ができるということです。言い換えれば、体が縛られるということです。これは、頭の中で何を考えていても、行動としてルール違反をしなければOKということです。

でも極たまに、心を縛る人間がいます。価値観や思考を強制するのです。僕はこれには本当に我慢できません。「やる気がない」とか「人を幸せにする気がない」とか、そんなことを言われても、一体それがどういうことを指すのか、分かりません。だから、それをどうやって改善するのかも、当然分かりません。分からないままに批判され続けるのです。僕はこのことに憤りを感じます。

複雑化した現代において、ルールは必要です。だから、人間は行動をある程度規制される必要があります。「義務」なんてことが設定されていることも、そうだからです。でも、一体誰が、どんな権利があって、人の思考を規定できるのでしょうか。「~を考えちゃダメ」「~と考えなければダメ」なんて、クソだと思います。例えば、世界的に絶対の悪の考えがあるとしましょう。それを規制したとする。どうやって規制するのかは知りませんが、するとする。その、悪の考えを規制したといって、行動が正義になるのでしょうか。僕には想像できません。そもそも悪とか正義って何だって感じですし。

人の脳みそを規制するなんて、本当に何様だって感じです。

僕はそんな人と、なるべく関わりたくない。

きっとそういう人は、絶対的な悪とか、絶対的な正義とかを信じているのだと思うのです。危険です。

100%悪な人も、100%善の人もいない。

アラレちゃんはアラレちゃんです。

明日再校を出して、転送します。

よろしくお願いします!

 

 

ではまた。

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2010年2月17日 (水)

映画『インビクタス』

を観ました。

 

正直イマイチだったかな・・・と思います。

黒人にして南アフリカの大統領になったネルソン・マンデラが、1995年のラグビーW杯南アフリカ大会に出場する代表チームを使って人種差別問題を解決するという、実話を基にした映画のようです。

イマイチというのはストーリーのことではありません。そもそも実話ですし、そこに文句を言っても仕方がありません。イマイチというのは、ちょっと無理やり感があったからです。

というのも、観ていて思ったのが、実はこの大統領とラグビーチームはあまり関係ないのではないかと思ったからです。ラグビーチームはラグビーチームで地元開催のW杯で優勝を目指し、ただ大統領がそれを利用したに過ぎないと思ったのです。利用したとかいうと悪意があるように感じられる人もいるかもしれませんが、それが悪いことだとは思いません。ただ、宣伝などを観て、大統領とラグビーチームが二人三脚で人種問題に立ち向かった物語のように思っていたので、それは全然違うと思ったのです。だから無理やり「大統領とラグビー代表チームは深く関わっていました」的な見せ方をすることに違和感を感じました。あ、実際にどうだったかは知りません。あくまで映画を観る限り、ということです。

 

あと、せっかくラグビーの試合のシーンがたくさんあるのに、それがイマイチでした。決勝戦こそ多くの時間使われていましたが、準決勝までは省略し過ぎだと感じました。どんなレベルの相手で、前評判はどうで、どんな戦略で、誰が活躍して勝ったのかなどの、感情移入するに必要な情報がほぼなく、つまらなかったです。まぁ青春スポーツ映画というわけではないのでそんな説明はいらないのかもしれませんが、でもあれではW杯の優勝が簡単なもののように思えてしまうと思います。

 

期待して観に行ってしまった反動もあるかと思いますが、評判ほど良い映画ではないと、僕は思いました。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月16日 (火)

太宰治『人間失格』

を読みました。

 

なんか超有名な小説が読みたくなって。

で、その感想なのですが、「読まなきゃよかった」です。

仕事疲れとオリンピック寝不足のところへ、この救いのない小説。また勝手にへこんでしまいました。電車で読んでいるときに泣きそうになったほどです。感動で泣きそうになったわけではありません。悲しくて、です。悲しくて、やるせなくて、です。

でも中には「うんうん、分かる分かる」と思える内容もたくさんあり、僕もなかなかの人間失格だな、などと思いました。

 

人間に訴える、自分は、その手段に少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。

~太宰治『人間失格』より~

 

やっぱり小説は、幸せになれるものがいいです。

今だけでも・・・。

あ~彼女欲しい。

 

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ではまた。

 

 

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大野芳『死にざまに見る昭和史 八人の凛然たる<最期>』

を読みました。

 

面白いか面白くないかで言えば、面白くはなかったです。

この本では8人の人物を取り上げて、その人がどう生き、どう死んだのかを、定説に捉われない形で説明をしています。山本五十六など、知っている名前もあれば、その他はほとんど知らない人たちの話でした。

昭和、とりわけ戦時中から戦後までには特に興味がありますが、この本で面白かったのは正直特攻で死んだとされている人たちの話だけでした。特攻(戦争)については、関連書物を読めば読むほど、イメージが変わってきます。というのも、こんなことを言うのは変なことなのかもしれませんが、僕には戦争というのがけっこう普通のことのように思える瞬間があるのです。もし戦時中に生まれれば、戦争に行って戦うということは、極めて常識的なことなのかもしれないと思うのです。もちろんだからといって戦争を認めるわけではありません。断固反対です。でもだからといって、戦争をしていた時代を「愚か」の一言で片付ける気にはどうしてもなれないし、志願して入隊した人たちのことも、理解できる気がするのです。

 

それと、この本を読んで思ったことでもありますが、歴史というのはつくづく一つじゃないなと思います。Aさんが伝える歴史とBさんが伝える歴史が異なるなんてことはざらです。だからなるべく色々な解釈や知識を得て、自分で考えなければならないのだと思います。

 

あー、なんで僕は小学校から社会の勉強をちゃんとしていなかったのでしょう。そうしたら今さら歴史の面白さに気づくということもなかったでしょう。20年弱という時間は、取り戻すにはちょっと長すぎます。

昔は歴史の漫画ばかり読んでいる同級生を馬鹿にしていましたが、馬鹿はこっちでしたね。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月14日 (日)

支持率を調べる世論調査の支持率

日テレの世論調査によると、鳩山内閣の支持率が39%だったそうです。

なんかこの、発足からだんだんと支持率が下がる流れって、もう変わらないんじゃないかって気がします。この足の引っ張り合いをやり続けている限り。一体政治家たちは何をしているのでしょうか。そしてマスコミは、何でそれに乗っかってるのでしょうか。本来、「何やってんの、あんたたち」って言わなければならない立場のジャーナリストではないのでしょうか。

うーん、ジャーナリズの崩壊。

 

この世論調査だって、そりゃこの流れでやれば下がりますよね。それ分かっててやるんだから悪意がありますよ、日テレには。しかもこの報道によって、「あ~あ、鳩山内閣もダメか~」とかいう風に、本当に世論が動いてしまうから怖い。この風土を作ったマスコミの罪は大きいですよ。たとえ戦前からの日本の常識だとしても。

世論調査をするなら、せめてフェアな条件下でやらなければ意味がありません。マスコミが流す情報だけでなく、内閣発信の情報なども与えた上での判断をさせるべきではないでしょうか。総理にテレビでプレゼンさせるとか。それは演説とかいうものではなく、成果報告という位置づけの、具体的で客観的なもの。そうすればもう少しまともな判断ができそうな気がします。ただのイメージによる支持とか不支持ではなく。

いい加減、頭の悪いマスコミに乗せられるのはやめたいものです。世論調査は疑いまくった方がいいと思います。無視でもいいくらいです。別に何か意味のあるものではありませんから。あれはただの、テレビ局の趣味です。

 

 

ではまた。

 

 

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モーグル日本人全員予選突破

いやー、オリンピック面白いですね。

ジャンプノーマルヒルは日本人は入賞できませんでしたが、モーグルは全員予選通過。今日の午後から決勝ですね。メダルを期待しましょう!

今はスピードスケートショートトラックを観ています。これの500mは凄いですね。ポジション争いの激しいこと激しいこと。転倒する場面もよく観られます。そういえば昔、周りの選手がゴール付近でクラッシュしてごっつぁん優勝したオーストラリアの選手がいましたね。ショートトラックはそういうのもあるから難しい。実力だけじゃ勝てないってことですね。運も実力の内とはショートトラックのことを言っているのでしょう。

 

それにしてもこの緊張感がたまらないですね。4年に一度しかない大会ですから、出場している選手のプレッシャーは半端なものではないでしょう。しかし僕はただの視聴者として気楽に楽しませてもらっています。

 

そういえばスノーボードの藤森選手が練習中に怪我をしたようですね。天候が良くなかったり雪のコンディションが悪かったりするようなので、こういった事故は起きやすい大会になっているのかもしれません。特にスピードを競う競技に関しては、実行委員会は開催の有無を慎重に判断してもらいたいものです。スポーツに事故はつきものですが、避けられるものは避けたいです。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月13日 (土)

バンクーバーオリンピック開幕

バンクーバーオリンピックが開幕しましたね。

とてもいい開会式だったと思います。

開会式に先立って行われたジャンプノーマルヒル男子予選は、日本人4選手は見事突破を決めたようですしね。

 

しかし盛り上がりを見せる一方で、現地では開催を反対するデモも行われています。これだけ規模の大きなスポーツ大会なので費用も半端なものではありません。当然反対する人も出てくるでしょう。

せっかくの祭典なので、できればみんなが祝福し、歓喜するものでありたいですよね。

そこで、どうでしょう。開催費用は参加国で割り勘にするというのは。開催都市はあくまで場所を貸すだけ。むしろインフラ整備の分得するみたいな感じで開催できれば、現地の人たちが一番歓迎する大会とすることができないでしょうか。

 

まぁいずれにせよもう始まってしまいましたし、僕は遠く日本に暮らす人間ですので、そこはあまり何も考えずに楽しもうと思います。仕事に支障が出ない程度でTV観戦します。一番の楽しみは何といってもアイスホッケー!!でもアイスホッケーはいつも最後の方なんですよね。でもまぁ、それまでも普段観ることがない種目がたくさん観れるので、毎日楽しみです。

エンジョイオリンピック!!

 

最後に、練習中に亡くなったノダル・クマリタシビリ選手のご冥福をお祈りします。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月12日 (金)

映画『ゴールデンスランバー』

を観ました。

 

かなり良かったです。

原作・伊坂幸太郎、監督・中村義洋、主演・堺雅人という超豪華な顔ぶれによる作品なので、まぁ外れることはないと思っていましたが、その通り面白かったです。やっぱり伊坂幸太郎の物語はこれでいいんだ、と思いました。人を幸せな気分にする物語です。現実的でないとかキザであるとか、そんなことはどうでもいいと思います。人にはそれぞれ役割があって、僕にとっての伊坂幸太郎の役割は、物語で人を幸せにすることなのです。

原作をもう一度読み直してみないと何とも言えませんが、映画は原作を超えたかもしれません。キャストが良かったし、監督が中村義洋ですからね。原作越えも十分に可能です。同じく原作・伊坂幸太郎、監督・中村義洋の映画『アヒルと鴨のコインロッカー』も、映画が原作を超えたと僕は思っていますが、『ゴールデンスランバー』も同じくらいいいです。

これは笑いながら泣ける映画だと思います。目頭が熱くなったシーンがいくつかありましたが、いずれも僕はちょっと笑いながらでした。特に、主人公の父親がカメラに向かって喋るシーンや、ラストの手紙が届くシーンなど、笑いながらも泣ける場面が他にもありました。笑いながら泣くってのは、何だかとても贅沢なような気がして、とても気分がいいです。幸せな気分になります。

 

いやしかし、伊坂幸太郎の描く家族像というのは、何て素敵なのだろうといつも思います。『ゴールデンスランバー』しかり『重力ピエロ』しかり。僕も親父になったら、こういう人になりたいと思います。理想の父親像は伊坂幸太郎に学ぼうと思います。

 

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映画も小説もお勧め、『ゴールデンスランバー』。

 

 

ではまた。

 

 

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一般的充実生活

昨日は4連休の一日目でした。なかなか楽しい一日でした。

まず冷たい雨の降る中でのサッカー。いつも使っている多摩市内の某グラウンドは、ちょっと固い砂場のような土で、足が埋まる感覚でプレーしなければならないのですが、昨日は雨のおかげでちょっとまともなグラウンドになっていました。でもあの雨の中でのプレーはつらい。キーパーを一本だけやりましたが、凍えて死ぬかと思いました。生きてて良かったです。生きてるって素晴らしい。

その後、同期と1コ上の代の先輩たちと、冷えた体を温めるべく、汚れた体を洗うべく、銭湯に行きました。僕はあまり風呂が好きではありませんが、さすがにこの時ばかりは極楽を感じました。僕たちと同じ状況の人たちが多かったのか、銭湯はめちゃくちゃ混んでいました。この風景を外国人が見たら、「日本人は何て仲がいいんだ」と思うこと間違いありません。

その後は施設内のレストラン(?)でご飯を食べ、ビールを飲みました。風呂上りの一杯を普段やることはありませんが、サッカーの後の入浴の後のビールは最高でした。きっと僕もその内、たぶん結婚とかしたら、風呂上りの一杯とかやるようになるんだろうなぁという気がしました。

大体6時半くらいに、サッカー日本代表の試合が始まるということでいったん解散しました。でも僕は家に帰るのもつまらないと思って、調布のスポーツバーでサッカーを観ることにしました。同期が一人付き合ってくれるというので二人で行きました。試合開始に間に合わなかったので、席が残っているか心配していたのですが、店には僕たちを除いて3人しかいませんでした。ドリンク2杯付きのチケットを買い、席についてサッカーの試合を見ました。最初のドリンクはホワイトビール。こういうところでしか飲むことないので、たまにはまろやかなビールをと思い。試合は正直あまり面白くなかったので、同期と二人で試合とは関係ないサッカーの話をしたり、たまに面白いプレーをする駒野を見ては笑ったりして過ごしました。ただ後半の終盤はリズムも良くなってなかなかいいサッカーをしていましたね。あれは平山の効果だと思いました。僕たちは二人で平山を絶賛していました。そして駒野を笑っていました。2杯目に1杯2300円するはずのウイスキーを飲み、ちょうど試合が終わったので店を出ました。

時刻はまだ21時半。僕はまだ家に帰る気がしなかったので、同期と別れて近くにあるたまに行くバー(?)に行きました。焼酎がたくさん置いてあって楽しいのです。今日は初めてみる店員さんがいて、話しているとバンドをやっている学生さんであることが分かりました。しかもジャンルがハードコア。僕が好きなのはパンクだけど、zebrahead(ハードコアといわれることもある)も好きだし、何か親近感が湧きました。

あともう一人たくさんお話をした人がいます。同じカウンター席に座っていた男性です。何かtwitterの話になって、なぜか僕と店員さんとその男性との3人での会話になったのです。その方はすごく熱心にtwitterの素晴らしさを僕に説明してくれました。僕は正直、twitterのことについてほぼ知識がなかったのですが、ここまで人を魅了するものなら試してみようと思い、先ほど登録してみました。でも正直、まだまだ分かりません。何か出来事があったり情報を得たり思ったりしたことを、そのタイミングで「つぶやく」というのがtwitterというもののようなのですが、僕はあまり携帯電話を使う人ではないので、たぶん僕には合っていないものなのだという気がしています。

しかしtwitterの良し悪しを判断するのはまだ早いと思うので、もうちょっと使ってみてからまた考えたいと思います。まずはtwitterを教えてくれたあの方のつぶやきを見たり、自分もつぶやいたりしてみながら使っていきたいと思います。(その方は名刺の裏にtwitterのアカウントが入っている!!)

 

しかし今朝になって思うのは、どうせ知り合いになるなら若い女性が良かったな~(笑)

なんつって。

 

さて、今日は4連休で唯一サッカーもフットサルもない日。

髪切って映画『ゴールデンスランバー』でも観に行こうかと思います。

感想は後ほど。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月11日 (木)

「いい人」の不在

お酒を飲んでいないのにこの時間に起きているなんて、最近ではなかったことです。

現在午前0時48分。

なぜか頭が働くので、この前ふと思ったことを書きます。

ROONEYSのことです。

 

ROONEYSには自慢できることがたくさんありますが、その1つとして挙げたいのが、「いい人」がいない、ということです。

いい人がいないことが自慢だなんて違和感を覚えるかもしれません。僕もROONEYSにいなかったら「何言ってるんだ、こいつは」と思うかもしれません。でもROONEYSにいて思うのは、ROONEYSにはいい人はいなくて、それが心地良いということなのです。

なぜそう思うのか、ということを考えることにどれほどの意味があるのかは分かりませんが、頭が勝手に考えてしまいました。

たぶん僕はどこかで、「いい人」を胡散臭いと思っている節があるのです。胡散臭いというと酷く否定的に聞こえますが、要するに根っからのいい人なんていないんじゃないかと思っているのです。

でもいい人は存在しています。僕も「あ~、あの人はいい人だな~」と思うことはあります。でもその人は、いつでも「いい人」なわけではないのだと思います。何らかの理由で僕の前で「いい人」でいるだけなのです。演じているといってもいいです。

演じることが悪いことだとは思いません。誰もが少なからず何らかのキャラクターを演じているものだと思うので。でももし、何も演じなくていいのだとしたら、それはとても楽なことではないかと思うのです。少なくとも意識的に演じなくていいのだとしたら。

僕はROONEYSにおいては、なるべく誰かが誰かに気を使うようなことがなければいいと思っています。だから、「いい人」がいないというのは、誰も「いい人」になる必要がないという点において、僕は嬉しく思うのです。

まぁただ単純にみんな他人に興味がないだけなのかもしれませんけどね(笑)

でもそれでもいいんです。

ROONEYSはお風呂なのです。

汗を流すためとか、体を温めるためとか、美容のためとか、疲れを取るためとか、お風呂に入る理由は人それぞれですが、みんなにとって一日の中で最も気楽な時間・場所。他人に興味があろうがなかろうが、そこが快適であればいい。僕がROONEYSに望むことはそれです。僕個人に人に厳しくしたりしがちなところがある分、ROONEYSには寛大な心でみんなを受け入れる湯船になってもらいたいのです。

 

これはROONEYSにかぎって思うことではありません。

お風呂の話ではなく、話を戻して「いい人」の話。

友人でも同僚でも、目の前で「いい人」を演じられると、「あぁ、この人とはここ止まりだな」と思うことがあります。

そう思うと、「いい人」なんてやっぱりどこにもいらないんじゃないかと思います。

 

そもそも「いい人」って、一体何が「いい」人なのでしょうか。

初めから実態のない言葉なんですよね。

いらないですね。

 

 

ではまた。

 

 

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間違いスーツ

今日僕は、スーツの上下を間違えて会社へ行きました。

下はグレー。上は黒のストライプ。

でもコートを着て出社し、着いたらすぐにコートもジャケットも脱いでしまうので誰にもバレなかったと思います。

 

家を出るギリギリまでDSのトモダチコレクションをやっていたせいです。

そういえばあのゲーム、ゲームのくせに変なところがリアルなんです。

ゲームの中でも僕は、全然彼女ができません。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月 9日 (火)

近藤史恵『サクリファイス』

を読みました。

 

結構面白かったです。

この小説は自転車ロードレースのチーム・オッジというチームの話です。ロードレースの面白さを知ることができますし、青春小説、あるいはサスペンスとしても面白いものになっていると思います。第5回本屋大賞第2位、大藪春彦受賞作でもあります。お墨付きというわけです。

 

そもそもこれを買ったのは、『Story Seller』でこのチーム・オッジの短編を読んだからです。これが結構面白かったので、買ってみました。そしたら大当たりです。しかも僕が思うに、『Story Seller』の1・2を読んでからの方が楽しめます。

しかも3月には続編が出るようです。正直続編が必要だとは思いませんが、おそらく読んでしまうのでしょうね(笑)

 

話が変わりますが、この小説がきっかけで僕はロードレースに興味が出てきました。

ロードレースというのはとても特殊なスポーツだと思います。個人競技のようで団体競技。団体競技のようで個人競技。チームにはエースとアシストという役割の人がいて、エースはアシストをある意味で犠牲にし勝利を目指し、アシストは初めから勝利などは目指さない。アシストはエースを勝たせるために走るのです。エースがパンクしたらアシストは自分のホイルを差し出すのです。

さらに面白いのは、ロードレースには敵との間にも暗黙の了解、あるいはマナーと呼べるものがあるのです。例えば、マラソンのようにロードレースも集団を形成して走るのですが、空気抵抗を多く受けるその先頭は、敵味方関係なく順番に受け持つのです。集団の先頭を走ることを「前を引く」と言うようなのですが、その集団にいる人は順番に前を引くというわけです。入れ替わり入れ替わり。本当なら敵に前を引かせた方が楽で有利になるはずです。でもそうはしません。それはマナー違反だからです。紳士的でないからです。ただ、自分のチームのエースには前を引かせません。消耗するからです。その代わりにアシストが前を引き、代わりに消耗するのです。

マナーは他にもあるようです。ロードレースにはツアーで行われる大会があるのですが、1つ1つのレース(ステージ)と、その総合タイムの両方で競うことになります。総合で勝てるのは強い選手で、それに勝てない選手は1つのステージで力を出し切って勝つのですが、総合で優勝を狙うような選手は、ステージ優勝は狙わないのだそうです。総合で勝って、さらにステージでも勝つなんてことは、卑しいというか贅沢というか、そこは譲ってやれという考え方があるそうなのです。ここがとても面白いと思いました。

ただ人と争うだけでなく、時には人と協力し、時には人を犠牲にし、あるいは自分を犠牲にし、ゴールを目指すのがロードレースというもののようです。

なんだかとても魅力的なスポーツに思えるのです。僕には。

なかなか日本では観る機会はありませんが、いつか観てみたいスポーツの1つとなりました。

そういう点でも、この小説はお勧めです。

 

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ではまた。

 

 

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2010年2月 8日 (月)

心を動かすいい人。人を動かす悪い人。

今日は10時から14時半までほとんど会議だったので、昼休みが15時~16時になってしまいました。こうなると昼休みを取らなかったり、ご飯だけ買ってきて席で食べるような人が多いように思いますが、僕は労働基準法を大事にしたい人間なので、休憩はしっかり取ることにしています。

ですから今日も、文庫本を一冊持って、とあるファーストフード店に昼食を食べに行きました。

そこでのやり取りで、ちょっと頭を過ぎったことがあったので書きます。

 

おそらく昼のラッシュを過ぎた後だったからでしょう。僕が注文したメニューにストックがなく、10分くらいかかると言われました。別に僕は急いでいたわけではないので、「いいですよ」と言って席に着きました。本を読みながらジュースを飲んでいると、店員さんが本当に10分後に頼んだものを届けてくれました。その際、「お待たせして本当に申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げました。

僕は一言、「ありがとうございます」と言って受け取りましたが、ふと思ったことは、「なんでたったの10分程度でこんなに謝られなければならないのだ。そして一体この謝罪は、誰が望んだ謝罪なのだ」ということでした。そして直後に、「いや、これは謝罪なんかではない。マニュアル的行動だ。マニュアル通りに誠実に行動した結果だ」と思い直しました。

そして次に、「じゃあなんでそんなマニュアルができた?こんな誰も幸せにしないマニュアルを」と思ったのです。

僕が考えるに、この手のマニュアルはクレーム対策なのだと思います。文句を言われる前に謝る、ということです。ではなぜそのようなマニュアルができたかというと、商品が来るのが遅いというクレームをつけた客がいたからでしょう。

クレーマーが新しいマニュアルを作ったのです。

 

ここで僕は思いました。

こういうことはもしかしたら世界に溢れているのではないか、と。

世界に「いい人」はたくさんいますが、彼らは人の心を動かすことはできても、それだけで終わってしまうことが多い気がします。時代を作ったり、新しいルールを作ったりということは、それほどない気がします。

ところが「悪い人」は、人の心は動かしませんが、人自体を動かしているような気がします。(ここでは「いい人とは・・・」とか、「悪い人とは・・・」と言った話はしません。前に「いわゆる」という言葉をつけて読んでいただけると幸いです。)

前者の例としてロックバンド、後者の例として政治家を挙げると分かりやすいのではないでしょうか。

 

僕が好きな作家、伊坂幸太郎の作品に『陽気なギャングが地球を回す』という小説があります。

このタイトルは、「なければならない犯罪もある」というような意味だったと思いますが、それとは別に、極めて実際的な意味で、悪い人が世界を動かしているのだと、遅い昼休みに思いました。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月 7日 (日)

新潮社ストーリーセラー編集部『Story Seller2』

を読みました。

 

色々な作家の短編小説が詰まった本です。

正直、それほど面白くなかったです。

入っている作家は、沢木耕太郎、伊坂幸太郎、有川浩、近藤史恵、佐藤友哉、本多孝好、米澤穂信です。

面白かったのは、伊坂幸太郎の『合コンの話』と、本多孝好の『日曜日のヤドカリ』くらいでした。といっても伊坂幸太郎の場合、もう僕が伊坂幸太郎のファンだから面白く感じるだけであって、おそらくファンでない人が読んでも大して面白くないのだと思います(笑)

本多孝好は初めて読みましたが、なかなか良かったです。『日曜日のヤドカリ』は二組の親子の話なのですが、丁寧語を使い合う親子の会話がとても面白かったです。何だか心が暖まるような気がする物語でした。人を幸せな気分にできる物語は偉大ですね。心が暖まるって一体どういうことなのでしょうね。まるで腹巻を巻いているかのような気分だ、と言い換えても問題ないのでしょうか。

 

あ、そうそう。小説としては面白くなかったのですが、興味深いところがあって折り目をつけたページがありました。

それがこれです。

 

犬も猫も笑わないのに、なぜ人間だけが笑うのか。その特権にはどのような、そして、どれほどの意味があるのか。うまく笑顔を作れないオレは、心情としては犬猫側につきながら、毎回そのようなことを考える。『毎回そのようなことを考える』奴がどれだけ間違っているかは理解しているつもりなので、安心してもらいたい。さらにオレは一日のうち数時間を使い、笑顔を作る練習もしている。ただ、成功したことはなかった。オレの顔面にはいつだって、笑顔の本質だけがべっとり貼りついているのだ。

~佐藤友哉『444のイッペン』より~

 

僕が気になったのは最後の一文です。「笑顔の本質」とは何か、ということを考えさせられました。

普段は僕は、作者の意図を読み取ろうなんてしません。表現は、作者から離れた時点で受けてのものになると思っているので、無理やり作者の意図を読み取ることに必要性を感じないのです。僕がどう感じるか、どう解釈するか、ということを大事にしています。

でもこの一文に関しては、作者がどういうつもりで言っているのか気になりました。そして、笑顔の本質ってものを、作者がどう考えているのかが気になりました。

笑顔を成功させたことがない男の顔にはいつも、笑顔の本質が貼りついている・・・。

ということは、笑顔の本質は笑顔にはあらず、ということでしょうか。

笑うことによって起こる表情の変化は、「笑顔」の一部、しかも表面的な部分であり、笑顔のその本質は、表情の変化が起こる前に、内面にのみ起こる変化。こんな解釈はどうでしょう。

まぁいずれにせよふわっとした、ぼわっとした、ぽよよんとした、曖昧な話になっちゃうんですけどね。

 

それにしても、この本に入っている作家の名前を眺めると、僕もけっこう知っている作家が増えてきたなぁと思います。2,3年前の僕からは想像もできなかったことですね。僕がこんなにも小説を読むようになるなんて。

人は変わるものですね。表面的な部分においては。でも本質は変わらないのです。

いくら小説を読むようになっても、上杉の本質はいつでもべったりと貼りついているのです。離れないのです。

 

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ではまた。

 

 

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2010年2月 5日 (金)

豆まきに恵方巻き…節分にどんなことした?

ブログネタ: 豆まきに恵方巻き…節分にどんなことした?参加数

 

今年の節分は恵方巻きを食べました。

どうやらその年の恵方(誰かが決めている方角)を向いて、食べきるまで黙っていなければならないようなので、今年の恵方である西南西を向いて、黙って食べました。

話す相手なんてはじめからいないのでなんて事はなかったです。

いいことがありますように。

 

ちなみに昨日、2月4日は実家に帰ったのですが、食卓に豆まき用としか思えない豆があったので、食べました。

撒かずに食べました。

いいことがありますように。

 

次はバレンタインですね。

今年はあらゆるイベントに乗っかっていこうと思っていますが、こればかりはどうしようもなさそうです・・・。

いいことがありますように。

 

 

ではまた。

 

 

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悪魔の実を食べたのね

僕はカナヅチです。

ほとんどのスポーツは得意なのに、水泳だけできません。

僕はヒトヒトの実を食べた人なのではないかと、ふと思いました。

アホみたいに。

アホだから。

アホ過ぎて死にそうです。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年2月 3日 (水)

森口朗『いじめの構造』

を読みました。

 

この本はタイトルの通り、いじめについての本です。なぜいじめが起こるのか。いじめに対してどう対処するべきなのか、といったようなことが書いてある新書です。

めちゃくちゃいい本だと思います。教育者全員に読んで欲しいと思うほどです。

ここでは紹介し切れないほどたくさんの示唆がありました。

 

「どうせいじめはなくならない!」と嘆くのではなく、「いじめは悪だ!」と喚くだけでもなく、「いじめを見て見ぬ振りする奴も同罪だ!」と熱血漢を演じるでもなく、いじめというものを科学的に、学問的に、冷静に分析して“対処していこう”というのが主なメッセージだったと思います。

この作者は、いじめをなくそうとは思っていません。あくまで対処なのです。相手を死まで追い込むいじめはもちろん撲滅するべきですが、いじめ自体は学校に必要なものであると言っています。

なぜか。

それは、大人の社会にいじめがあるからです。大人の社会にいじめがある以上、子どもは大人になる前にいじめを経験しておく必要があるということです。これにはものすごく納得させられました。大人は、自分は誰かをいじめていたり、あるいはいじめが大人の社会に存在していることをはっきりと自覚しているにもかかわらず、学校にはいじめはあるべきではない、と言い切ります。子どもたちからしたら、自分のことを棚に上げてよく言うよ、ということになるでしょう。

僕たちはいじめと付き合っていかなくてはならないのです。なくならないのですから。だからこそ、ちゃんとした対処方法を知っていなければならないのです。例えば暴力に対しては、「いじめ」という言葉で隠さずにちゃんと刑事告訴するべきです。刑事告訴までいかないようなものであれば、教育委員会が加害者に出席停止を言い渡すべきです。

これが対処です。これでいじめがなくなるわけではありません。風邪を引いたら薬を飲むように、いじめがあったらそれに対する処方箋を出すわけです。

ところがいじめを根絶しようという人には、対処しようという意識が生まれにくいようです。「根」を「絶やす」ですから、目に見えないところにこれさえなくなればいじめはなくなる、というような一つの決定的な原因があると考えてしまうのだと思います。そういう人からすると、対処は実に表面的で意味がないと感じるのかもしれません。

しかしよく考えてみれば、世界はそういったもので溢れています。戦争とか飢餓とか不況とか、様々なトラブルをいつまでも根本解決できずに対処して生きているのが僕たちです。いじめだけは別だということはないんです。

 

さて、ここまで書いて僕がこの本の1%も説明できていないことが分かりました。この本にはもっとたくさん、もっと分かりやすく、色々なことが書いてあります。ちょっと攻撃的な文章も面白いです。

かなりのお勧めです。

 

これまで、いじめに言及してきた人達の多くは心優しき人達でした。それがいじめ現象の認識をあいまいにしてきたとすれば、残念でありません。有効な対策は、現実を直視することでしか生まれません。現実を直視するとは、子どもと同じ目線でこんな酷いことをされた、こんな酷いことを言われたと訴えることだけでは決してありません(それはそれで重要ですが)。

時にはクールに現実を分析するのも大人の責務です。

いじめにクラス内のステイタスが関係していることなど、誰もが判っていたはずです。しかし、ほとんどの人が、いじめ問題を理解する際にその要素に着目しませんでした。

人はみな平等であるという理想が現実を見誤らせた、というのは言いすぎでしょうか。

~森口朗『いじめの構造』より~

 

話は変わりますが、この森口朗さんはきっと、人から優しくないと思われている気がしてなりません。冷静に物事を見つめる人というのは、得てしてそう思われがちだと思います。表面的な人の方が体裁の整った発言をするので、多くの人からあの人は優しいと思われます。

でも僕は全然違うと思うのです。本当に人のことを考えているのはどちらか。そんなことは本当は明らかなはずです。表面的な言葉に騙されなければ。

森口朗さんは心優しい人だと、僕は思いました。

是非読んでみてください。

 

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ではまた。

 

 

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2010年2月 1日 (月)

竹山道雄『ビルマの竪琴』

を読みました。

 

結構面白かったです。

大東亜戦争の終戦をビルマで迎え、イギリス軍の捕虜となった日本陸軍の部隊の話。特別な任務を任されて収容所に入らなかった一人の兵士がいて、彼は日本に帰らない決意をして隊を離れる。彼はなぜ戦争が終わったのに日本に帰らなかったのか。それが徐々に明らかになります。いい話なのです。

ちょっと『悼む人』(天道荒太)と共通するところがあるかもしれません。ネタバレになるのはよくないので詳細は書きませんが。

 

ビルマは平和な国です。弱くまずしいけれども、ここにあるのは、花と、音楽と、あきらめと、日光と、仏様と、微笑と・・・・・・。

~竹山道雄『ビルマの竪琴』より~

 

僕はこの文章がとても気に入りました。どこが気に入ったかというと、「あきらめ」がどこか肯定的に捉えられているところです。「あきらめ」は僕が生きてきた経験上、決して好まれる言葉ではありません。

「あきらめたらそこで試合終了ですよ」に象徴されるように、「あきらめ」は敗者を連想させます。

ところが「平和」という観点から「あきらめ」をみてみると、全然違ってきます。あえて敗者という言葉を残して想像してみましょう。「あきらめ」のある世界。「あきらめ」が認められている世界。それはつまり、敗者が存在している世界。敗者が存在してもいい世界なのだと思います。それを平和と呼んで悪いことはないでしょう。

多くの先進国のように、勝者と敗者をくっきりと分けて、勝者が敗者をいじめる世界。勝者が敗者を騙す世界。勝者が敗者から搾取する世界よりも、全員敗者でいいから自然や音楽や宗教を大事にする世界の方が、「平和」というものに近いと思いました。

ただこの小説はフィクションなので、本当にビルマという国が平和かどうかは分かりません。当時と今も違うでしょうし。ただ、考え方の問題ですね。

平和とは何なのか。生きるとは何なのか。死者とは何なのか。

そういうことを考えさせられた小説でした。

 

短くて読みやすいし、お勧めです。

 

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ではまた。

 

 

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絶対MVP

今日はめちゃくちゃ楽しい日でした。

土曜日が完全に廃人と化していたので、その分余計に良く感じたのかもしれません。

 

今日は朝からフットサルの大会でした。

結果は全勝で優勝でした。1試合だけ危ない試合がありましたが、何とか逆転勝ちできましたし、その他はほとんど危なげなく勝てました。

チームの調子も良かったですが、僕個人の調子も絶好調でした。4試合で4得点でした。でも僕はチームでは、守備をしっかりやらなければならない立場なので、そこもしっかりでやりました。ミスもほとんどなく、かなりいい出来だったと自負できるほどです。こんなことは僕には珍しいです。大体納得できないプレーをすることが多いのですが。

しかもさらに自画自賛させていただけるなら、4得点のうち2得点が先制点だということです。先制点は僕が一番大事に思っていることなので、とてもいい仕事ができたなと思います。

 

参加メンバーは9人だったので、キーパーを除く8人で前後半で分け、みんな均等に出場した上での結果なので、とくに良かったです。みんながまず楽しめる環境を用意して、その上で勝つということが大事なのです。うちのような地域スポーツクラブにおいては。もしちょっと下手な人がいても、俺がカバーしてやる、という意気込みです。たまに自分の必死さが伝わってしまうことが反省事項ですが・・・。

 

その後は自転車で会場まで行っていた人たち4人で昼食を食べに行き、その後、吉祥寺に飲みに行きました。

とはいえ吉祥寺に着いたのが4時半だったので、まだ店に入るのは早いだろうと思い、コンビニでビールを買って井の頭公園を散歩しながらビールを飲んでいました。これ、結構楽しいです。

ストリートパフォーマンスを観たりしながら公園を一周し、居酒屋へ行きました。そして結局12時前まで飲み、多少の頭痛を感じながら帰ってきました。

 

こんな一日を終えて僕は改めて思いました。

僕はここならいていいのだ、と。

そして僕がそう思うように、メンバーの皆にとっても、ここにいていいんだ、と思えるものであり続けたいと。

俺は、ROONEYSとROONEYSの皆を守るためなら何でもやるぞ。

 

 

ではまた。

 

 

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