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2010年10月

2010年10月31日 (日)

自動のシカト

たまにさ、“自動”ってすごく嫌になる。

自動ドアとか自動の水道(蛇口)とか。

なんで俺がお前が動くのを待たなきゃいけないんだ、と思う。

いつも僕のタイミングで動いてくれるならいい。

でもたまにあいつら、動きやがらねぇ。

ドアの前に立ってるのに無視。

蛇口の前に手を出してるのに無視。

この無視されているときの屈辱感といったらもう・・・

日本人はね、屈辱を味わうことに敏感なんだよ。だから人を侮辱すると、それが死に値する罪に問われたりしてきた。

まぁ日本だけの話なのかは知らないけど。

そんな国の現代では、なんと機会が人間を侮辱しやがる。

そしてこの問題の最大のジレンマは、この屈辱をどうやって晴らせばいいのかが分からないということだ。

自動で動かないからといって、じゃあそれを手動で動かせるかというと、そうではない場合が多い。自動ドアなんかは手動でも開けられるようだが、それにはだいぶ必死に頑張らなければならないだろうし、自動ドアを手動で開けようとしている人は、どう見ても不審だろう。

じゃああきらめて立ち去るのかといえば、そもそもそのドアを通ろうとしていた目的によってはそうはいかない。

結局、機会のご機嫌を伺い、動いて頂くのをお待ち申し上げるしかないのだ。

 

 

まったく、便利は不便だ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年10月24日 (日)

宗教のジレンマ

僕は信仰心が、これでもか!!!というくらいない人間だからよく分からないが、宗教ってのは基本的には、道しるべとかすがるものとか、そういうものだろ。

ところが世界には、少なくともこの日本には、少なくとも東京都には、少なくとも僕の周りには、その道しるべとなるべき宗教に道を遮られているケースがある。

結婚とかいう場合にだ。

宗教的にこういう人じゃなきゃ駄目とか、あの宗教の人とは結婚できないとか、そういうクソみたいな宗教観が世の中にはけっこうある。

みんな宗教とかいうと何か触っちゃいけないものみたいに思っていて口には出さないが、一度誰かがそういうこと発言すると、「実は私も・・・」という具合に出てきたりする。それくらい、案外多くの人が宗教によって人生を邪魔されている。

これは宗教の本来あるべき姿からしたらどうなんだろう、と思う。

人生を助けるのが宗教だろ。

なのにいつの間にか、宗教を、その宗教たらしめるために、人間が存在するようにっている場合がある。考え方が逆転している。人を幸せにしないで、何が宗教か。じゃあその目的は何なのか。もはや見失っているとしか思えない。実に愚かだ。そんなのは何かの署名活動のリストに書き込まれた一氏名くらいの価値しかない。どこかの団体とか政治家とかに提出され、「重く受け止めます」で終わるだけの、実は何の意味も無い一署名だ。一人の人生がそんな軽くていいのか。そんなに宗教ってやつは大事なのか。

絶対おかしいだろ。

何かにすがりたいとか、何かを信じたいってのはあっていいと思う。人間は脆いから。

でも、他に何か新しい何か、すがれるものでも信じれるものでも、あるいは夢とかお金とか何でもいいけど、そういうものを見つけたなら、自分の中で宗教の立ち位置を変えることは絶対に必要だと思う。

よく、考え方が一貫していることがいいことだといわれることがあるけど、そんなのウソだからね。考え方なんて変わるに決まってるじゃないか。色々な人に出会う度、色々な話を聞くたび、色々な本を読むたび、色々な音楽を聴くたび、色々な経験をするたびに、考え方は変わるんだよ。なのになぜ宗教のあり方は同じじゃないといけない?そんなわけない。信者が1万人いる宗教なら、そこには1万個の宗教があると思ったほうがいい。戒律だとは何だとか、僕にはよく分からないけどそういうのがあるんだろうけど、それも、1万通りだ。アホみたいにみんなと同じことをしてればその信仰を守っていると思ったら大間違いだ。

信仰はあなただけの中にあり、他の人の中には違う信仰がある。

だから本来、宗教があなたの人生を邪魔するなんて、有り得ない。あってはならないんだ。

都合よく考えようじゃないか。

昨日言った事なんて、どんどん撤回してやれ!

 

 

ではまた。

 

 

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NEW FOUND GLORY『Understatement』

このとことん楽しくてぶっちぎる感じ!

いいわー。

 

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自転車に乗る際にイヤホンをするかしないかの結論

ちょっと前に書いたけど、東京都では自転車に乗る際に、イヤホンをすることが禁止されている。

それを知った僕は、これからもイヤホンをして自転車に乗るか乗らないか、一瞬迷ったのだけど、結局僕はイヤホンをして自転車に乗っている。

やっぱりよく考えるとおかしいんだ。イヤホンが禁止されるってのは。

イヤホンを禁止する理由は、

①周りの音が聞こえなくなって危ない&周りに迷惑をかける。

②イヤホンから聞こえてくる音の内容に意識がいってしまい、やはり危ない。

こんなもんだろう。

まぁ確かに、イヤホンをしているが故に危ない場面はある。

でも、イヤホンをしていないのに危ない場面にあう人はたくさんいる。

例えば、信号の無い十字路に進入する際に、一時停止はおろかスピードを緩めることもせず、さらにはミラーも見ないし、左右の確認もしないで突っ込む馬鹿がいる。こいつはイヤホンの有無なんて関係なく、危ない。

でも逆に、イヤホンはしているけど、曲がる時とかちょっと右に出て抜くときとか、後ろを確認したり左右を確認している人もいる。

一体どっちの人間が事故を起こすと思う?

そんなの明らかだろ。

イヤホンじゃねーんだよ。問題は。

問題は自転車の乗り方を知らないやつらなんだよ。

もしイヤホンをしている人の方が事故を起こしている、なんてデータがあるとしたら、その事故を起こした人ってのは、イヤホンをしている且自転車の乗り方を知らない人なんだよ。

だからさ、あちこちに目線を動かしながら自転車に乗ってる僕は、イヤホンをしても問題ないと思うわけ。

いやそりゃね、「イヤホンをした方が事故を起こす確率は上がる」ってのは知ってるよ。

でもね、だからってやめるわけねーじゃん。

「あー、イヤホンをすると事故を起こすかもしれない」

「あー、この遊具で子どもを遊ばせたら壊れて怪我をするかもしれない」

「あー、タバコを吸うと今にも肺がんになって今にも死ぬかもしれない」

「あー、お酒を飲んだらアル中になってやはり死ぬかもしれない」

「あー、ここで立小便をしたらカマイタチがおちんちんをちょんぎってしまうかもしれない」

そんなリスクを気にして生きていけねーっての。

それが人間だろうが。

 

これだから法律や条例を作って、「はい、僕仕事しましたよ」と思ってる政治家とか役人は嫌だ。いない方がいい。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年10月23日 (土)

リーダーシップのマニュアル化

大学の卒論でリーダーシップについて考えて以降、リーダーシップについての興味は未だ失せていない。

会社にいると僕よりも上の人のほうが多いから、僕はフォロアーの立場から色々なリーダーを見ることになる。

すると、なるほどと思うことがたくさんあり、色々考えさせられて面白い。自分のリーダーシップスタイルに影響を与えていることもあるんだと思う。

 

この前、「リーダーとはこうあるべし!」みたいな話を聞く機会があった。

そこでは、こういうときはリーダーはこうするべき、というようなことがたくさん紹介されていた。

それをみんなに聞かせるということは、やはりそこにいる人たちに見習わせようということなんだと思う。

そこで思った。

それは効果的なことなのか。

よく、リーダーとマネージャーは分けて考えられる。僕は正直この2つを定義したことがないので、ここでその違いを説明するのを試みるのさえやめておこうと思うが、何となくだけど、マネージャーの方はわりとマニュアル化、あるいは一般化ができて、周囲にそのやり方を見習わせることができる気がするが、リーダー(リーダーシップ)はそういうものじゃない気がする。

僕の、リーダーシップに関する基本的な考え方は、リーダーシップスタイルはフォロアーに従う、だ。

だからリーダーシップをマニュアル化ていうか、自分のリーダーシップを他の場合にも適用はできないと思う。フォロアーが違うから。それができるのは、カリスマって人だけ。カリスマはどこへ行っても自分のリーダーシップにフォロアーを巻き込んで、リーダーシップにフォロアーを合わせてしまう。でもカリスマは極めて一の人間だ。ほとんどの人は、カリスマじゃないのにリーダーになる。

 

とはいえリーダーシップのマニュアル化は、理論的には可能だ。僕の考え方が正しいかどうかは知らないけど、リーダーシップはフォロアーに従うとして、そのフォロアーのパターンをすべて洗い出せれば、それぞれに適したリーダーシップを設定することはできそうだ。

でも、フォロアーのパターンをすべて洗い出すってのがまず無理。フォロアーの構成要因としては、数・所属期間・国籍・性別・年齢・性格・学歴・哲学・理念・犯罪歴・家族構成・・・挙げ出したらきりが無い。こういう無数の要因の掛け合わせがフォロアーシップとして現れてくる。すべての場合なんて言ったら一体何通りになるのやら。概算で出すのも嫌になる。

だから僕は、他人のリーダーシップを自分のものにしようなんて、あまり思わない方がいいと思うんだ。そんなことよりもフォロアーをよく見て、試行錯誤しながらこの組織における自分が取るべきリーダーシップスタイルを模索する方が断然いいと思う。そのヒントとして他人の、他の組織のリーダーシップを参考にするのは有りだと思う。

 

まぁどうでもいいけど。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年10月18日 (月)

ぱわーとぅざぴーぽー

いやーあきれるね。あきれが果てるね。


何にって俺の仕事できないっぷりにだよ。


全然追いつかない。
追いつかないだけでなく、質も極めて低い。質が低いだけでなくとうとう周りの人を不幸にもし始めた。


俺が担当じゃなかったら幸せだった人はもうすでに大勢いる。悲しいね。


でも俺の最悪なところはここじゃない。この状況をある意味ではあきらめていることだ。もしこれが問題なら、俺は問題解決をする気がない。いや、やれることはやってる。でも一日がどうしても24時間であるように、重力がどうしても地面に向かって働くように、どうしても毎朝2回ウンコが出るように、僕はこういう働き方しかできない。


世界は認知だ!という立場に立てば一日を30時間にも83時間にもできるし、それに近い生き方をしている人もいる気がするが、俺は絶対になりたくない。


人にやらせたくないことは、俺もやらない。みんなには休んで欲しいしご飯を食べて欲しいし寝て欲しいから、俺もそうする。


すると当然、そんなに仕事はできない。今が限界だ。いや、今でも越えている。実は若干、マヒしてきている。長く働くことに体が慣れてしまい、疲れを隠すようになってしまっている。危険信号を発する感度が落ちている。


危険だ〜。


とまぁこうやって言い訳したり文句を言いながら、明日も朝もはよから働くんだな。
会社がないと生きられない俺は。


ちくせう。


ではまた。

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2010年10月17日 (日)

出発点はイメージ

昨日の午後、テレビで戦場カメラマンの渡部さんが数人の若手俳優たちと対談をする番組がやっていたので観た。

渡部さんはとても面白いと思うし、何か機会があれば話してみたいと思う。

戦場カメラマンという職業も、素晴らしいと思う。

でも僕が素晴らしいと思うのは、その成果を指してのことではない。心意気というか、動機や意思と行動が結びついている点で素晴らしいと思うってことなんだよな。

正直僕は、戦場の写真を僕らに見せて、それが一体何なんだという考え方も持っているから。

世界にはこういう理不尽があり、苦しんでいる人がいる。

そういうことを知って欲しいと、戦場カメラマンの人たちは言う。

わかる。

僕も知りたい。

でも同時に、知ったから何だという気もする。正直、知っている人と知らない人。その両者の行動に差違はないと思う。多くの場合。

ただ、知った人の中から同じく戦場カメラマンを志す人が出たり、政治家を志す人が出るから、やっぱりとても意義のある仕事だとは思う。

 

でも僕がやっぱり気になるのは、知ってしまうことのリスク。

例えば戦争を体験したことがなく、教科書やテレビでも見た事がなく、言葉としての「戦争」さえ知らない人は、これから戦争を起こすことが可能かということなんだ。

分からないけど、知らなきゃできないんじゃないかと思う。知るから頭の中にイメージができて、行動に移すことができるんじゃないかと思う。

だから実は、戦争の映像や静止画、起こった背景と被害者数。あらゆる知識やイメージを共有することは、危ないことなんじゃないかとも思う。

 

だからといって、戦場カメラマン何て偽善者だ!なんていう気はさらさらない。ていうか最近、偽善なんてものはこの世に存在しないと考えるようになってきた。善は彼らにとっての善。その善が他人にとってはたまに、善となり得ない場合があるってだけ。別に偽っているわけではない。

本当の偽善は、相手を騙す行為のみを指すべきだ。

でも多くの場合、僕たちはそういう意味で「偽善」という言葉を使わない。世界が狂ってる証拠の一つがこれだ。

話が反れた。

 

とにかく僕は、この対談番組を観ていて、このことについて渡部さんに聞いてみたいと思った。

あなたの写真が戦争を終わりなきものにしている可能性を含んでいることについて、どう思うか。もし僕と同じことを1ミリでも考えたことがあるなら、それすらも了解して仕事をしているのか。

もしそうだとしたら、この人はすげぇ人だと思う。

迷いながら、悩みながら何かを続けるってのは、恐ろしくエネルギーを必要とするからだ。

 

本とか出してるのかな。

別に渡部さんじゃなくてもいいけど、戦場カメラマンの本とか読んでみたくなってきたな。

 

あ、あと、「僕、遠い外国のことなんてどうでもいいんですけど。テレビを消して、新聞を読まず、本も読まず、インターネットも切断すれば、僕の世界は平和なんです」って言ったらどう返してくるのか。これもすごく興味がある。こういうことを考えたことがあるかどうかも、是非知りたい。こういう人たちは、僕みたいな平和ボケした自由気ままーんなんてタイトルのクソブログを書いてる人間をどう思うのか。

知らないことは罪じゃないと考える僕のことを、一体どう思うんだろう。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年10月16日 (土)

和田竜『のぼうの城(上・下)』

を読んだ。

 

めちゃくちゃ面白かった。

何か最近時代小説を読むことが増えたけど、その中でもかなり面白い方だと思った。

「のぼう」というのは成田長親の俗称。「でくのぼう」の「でく」を取って、領民からも「のぼう様」と呼ばれていた。忍城の城代として、天下統一を目前にした豊臣秀吉分の石田三成を迎え撃った。それで『のぼうの城』。

この時豊臣秀吉が関東の北条家を攻めて落とせなかった城は、この忍城だけなんだと。その戦いのお話だった。

 

この武将にして領民にも馬鹿にされる長親を筆頭に、各軍に面白いキャラクターが揃っていて、戦術も実に面白く、まさに戦国エンターテイメント小説って感じだ。

特にこの長親は、本当に摩訶不思議な人物で、馬鹿なのか名将なのか分からない。最初は秀吉と戦をするのに反対だと言っておきながら、相手に侮辱されるやいなやこう言って開戦を選んだ。

 

武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやなんじゃ」

~和田竜『のぼうの城(上)』より~

 

この台詞超いい。

わしだけはいやなんじゃ。

僕も、際限なく金をもうけようとしているクソ野郎どもに言ってやりたいよ。

 

「お前は確かにすげぇ。みんながお前をすげぇと言うし、お前から習いたい。お前のようになりたいと言うよ。でも、俺は嫌だ。俺だけは、お前みたいになるのは嫌なんだ。お前がそうしているのも、嫌なんだ」

って。

 

こういう小説をきっかけに、人は歴史に興味を持つんだろうな。

うん、いい小説だ。

 

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オススメ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年10月12日 (火)

やんや党

久しぶりにニュースで国会を見たんだけどさ、相変わらずだね。

やんややんや。

野党がやんややんや。

政権を獲ることに必死。

というよりも、引き摺り下ろすことに必死。

国は引っ張らないが、与党の足は引っ張る。

もうね、僕は思うね。

やんや言う係りを作っちゃえばいいじゃんってね。

野党にやんや言うなって言ってももう無駄だということは明らか過ぎるほど明らかだから、もう野党のみなさんにはそのままやんや言う係になってもらって、その分空いた国会議員の席をちゃんと政治家で埋めよ。

もうやんや言う係はいるからさ、新しく議員になった人たちはやんや言わないでしょ。

日本人は真面目だからさ、役割を忠実にこなすんだよ。

だからやんや係が他にいれば、自分はやんや係にはならないんじゃないかな。

知らねーけど。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年10月 7日 (木)

面食いについての考察ーん

面食いってのがある。俺のことだけど。

いわゆる顔の整った人を好むことだ。

これは一般的には良いこととは思われていない。


なぜか。


たぶん、顔は生まれつき決まったものなのにそれで好き嫌いを判断するなんてヒドイ、ということなんだと思う。


逆に、中身つまり性格で好き嫌いを判断することは良しとされている。


これはおそらく、性格は変えられるものだからそこを評価するのは当然であり良い、ということなんだと思う。


でもふと思った。


相手の性格を好きになるって、ほとんどの場合、自分都合で考えての結果だと思う。

象徴的なセリフが、「あの人といると楽」とか。


あ、それが悪いってわけでは全くない。むしろ当然。むしろ良い。


じゃあ面食いはというと、これは自分の都合とか損得勘定で動いてない人なんだと思う。違うかもしれないけど、本能的な何かに従っているように思える。

面食いは本能。

中身を好きになる人は損得勘定。


こう考えると印象が逆転する気がしないか?

しないか。


ではまた。

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2010年10月 5日 (火)

相対性なんたら理論

80年とか生きる人間にとっては一日の変化なんてほとんど感じることがないけど、一生がほんの数日とか数十日の虫にとっての一日は、人間の1ヶ月とかにも感じてるんだろうなー。


すげーな、相対性。


いやでも、何も感じてない虫もいそうだな。


一日に何度も狩りへ出掛けるオオスズメバチだからこそ変化を敏感に感じるのか。


すげーな、オオスズメバチ。


今、『風の中のマリア』っつー、オオスズメバチのお話を読んでます。


オオスズメバチ、頑張ってます。


ではまた。

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2010年10月 2日 (土)

クソ論理

何で論理的じゃないとダメなのか。
これに答えられる人はいるのだろうか?

人を説得させるため以外の理由で、真に正しいものとして、論理ってのはそんなに絶対的なものだろうか。

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