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2010年11月

2010年11月29日 (月)

無敵の言葉

「仕事だからサッカー行けない」

「仕事だから飲み会遅れる」

「仕事だから病院に行けない」

「仕事だから子どもと遊べない」

「仕事だから飯いらない」

 

仕事だから仕事だから仕事だから。

 

世界のあらゆるものが仕事によって潰されている。

たぶん、もし誰かが仕事として地球を潰したら、その誰かに人はこう言うんだろう。

 

あぁ、仕事なら仕方ないね。

 

たしかに、仕事ではなく人を殺せば罪になるが、仕事として人を殺せば罪にならないケースが世界には溢れている。

仕事とはなんと絶対的なものか。

 

この仕事というもの、一体何者なのか。

仕事仕事と言ってはいるが、仕事とは一体何なのか。

農家は畑を耕し種を撒き、水を撒き、収穫して出荷することを仕事といい、大工は家を建てることを仕事といい、サラリーマンは“会社へ行く”や“会社にいること”を仕事といい、アメリカは外国人を殺すことを仕事という。

さて仕事とは何なのか。

 

【仕事<しごと>】

①する事。しなくてはならない事。特に、職業・業務を指す。「―に出掛ける」「針仕事」

②事をかまえてすること。また、悪事。

③〔理〕力が働いて物体が移動した時に、物体の移動した向きの力と移動した距離との積を、力が物体になした仕事という。単位はジュール(J)。

~広辞苑より~

 

うん、実に分かりやすい答えがありましたな。

しなければならない事。

なるほど。しなければならない事は、しなければならないよな。だって、しなければならない事なんだもの。しなくてもいいしなければならない事は、それはしなければならない事ではないものね。

食べることも寝ることも約束を守ることも子育てをすることも全部、それ単体では“しなければならない事”ではない。もちろん、農業も建築もデスクワークも、それ単体では、”しなければならない事”ではない。でも人はそれを仕事と呼ぶ。しなければならない事だから仕事なのではないんだ。仕事だからしなければならないんだ。

認識なんだよ。

仕事と思えばしなければならない事になる。でも仕事と思わなければそれはしなければならない事ではない。しなければならない事ではないものをするってことは、主体的に能動的にそれをするってことに近いと言えると思う。だから本当は、仕事を仕事としないことが楽に生きる道なんだと思う。まぁ無理だけど。

だって仕事は仕事だもんな。

 

こうやって言葉の定義だけであーだこーだ言うのって、すげーくだらねーと思う。何の意味もねーからな。意味って何だって感じだけどな。

 

 

もうどーでもいいわ。

すげー疲れたから寝よ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年11月28日 (日)

ペコリーマンの限界

昨日電車で、一人のサラリーマンを見た。

彼はシーツケースを持っていてどうやら出張の帰りのようだった。

僕がイスに座っていると、その目の前に彼は立った。

僕は目線を落としていたから彼の下半身しか見えなかったけど、どうやら彼は気をつけをしてしきりに窓の外にお辞儀をしているようだった。

おそらく取引先か何かの人がホームにいて、彼らと別れた直後だったんだろう。

僕の目の前のサラリーマンは発車するまでずっとペコペコとお辞儀をしていた。

スーツと靴は黒でよく手入れがされているようだったし、スーツケースも黒で、いずれもブランド物がどうかは知らないが、実に無難で、いわゆるサラリーマンらしい格好だった。

見上げてみると髪も短く清潔感があって、顔もなかなかのイケメンだった。35歳というところか。

やがて発車した。

電車が動き出しても彼は、ずっとお辞儀をしていた。どうやら見えなくなるまでお辞儀を続けるらしかった。

突然彼のお辞儀が止まった。どうやらホームが見えなくなったらしい。

彼はあからさまに“ぐったり”した。2つのつり革を両手でつかみ、その姿はせめて上半身だけでもつり革に預けたいと言わんばかりだった。

そして足の置位置を何度も変え、なんか急に落ち着きの無い人間になった。

次の駅で人が降りて僕の隣の席が空くと、彼がそこに座った。

すると彼は足を投げ出し、股を広げ、スーツケースに突っ伏すように寝た。

 

タチの悪い客。

 

何も知らずに彼を見た人はこう思ったに違いない。

実際、隣に座っていた僕はちょっとイラついた。

でも僕は、こういうサラリーマンを責める気には到底なれなかった。

ペコペコだってしたくてしてるわけじゃないだろうし、きっちりした服装も楽じゃないだろう。だったら一人になった時くらい、あんな感じでいいんじゃないかと思う。

サラリーマンは大変なんだ。

人の会社で生かされてるんだから。ペコペコするときもあるし、人の顔色窺って疲れるときもあるだろうよ。

そういうのをしないで生きていけるサラリーマンももちろんいるんだろうけど、どっちが多数派かといったらペコリーマンだよね。

もしかしたら彼は典型的な、儲けてるくせに働きすぎてる日本人なのかもしれないけど、本当は彼には、そんなに頑張らなくてもいいよ、と言ってあげたいんだけど、きっと今の日本人のペコリーマンの価値観に対してその言葉を言っても無意味だ。

だから僕は、その時は持っていなかったけど、もし持っていたらスッと手渡していたと思うよ。ビール。

 

まぁとにかくさ、僕が歳を取って誰かにプレッシャーを与えうるような立場になったときにはさ、僕と別れた後にあんな表情をさせない人間になっていたいと思うよ。

 

ビールが飲めなくなっている日本人の若者が作る社会は心配だ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年11月20日 (土)

よく分からない主張ほど迷惑なものはない

僕はかつてスポーツで人を幸せにしたいと思っていた。

今もその思いは持っているが、当時のものとはだいぶ変わってきている。

 

スポーツという手段に本質はない

そう思ってきたんだ。

本質なんてクソ軽い言葉を使うのは実に不本意だけど、僕の語彙力ではこれが限界だ。本質という言葉を嫌々でも使うことにする。

 

スポーツをするかしないかは、全くもって大事じゃない。

人が幸せになればいい。

僕の周りにいる人が幸せであればいい。

僕が幸せで、その人も幸せであればいい。

手段なんて全然重要じゃない。

 

でも、それでも今、僕はやっぱりスポーツだと思う。

それは、世界で最も優れた、人を幸せにするツールがスポーツだと言いたいわけではない。

僕が幸せになれるものがスポーツだからだ。

そんな僕が誰かを幸せにするなら、やっぱりスポーツを使うべきだろうと思う。

 

クソ会社員になってからもう3年と半年が経つけど、僕はいつも顧客至上主義というものに違和感をもっていた。

お客さんのことを考えるのはものを売る人間としては当たり前の態度だと思うが、お客さんのニーズやウォンツを満たすために自己犠牲を払うのは絶対に違うと思う。ましてや、企業の論理に付き合って払う自己犠牲なんて論外だ。

僕がいつも夢見るのは、組織の構成員がたまらなく自由で気楽で幸せで、それに付き合わされるように幸せになっていく顧客や取引先。そういう組織を僕は作ってみたい。誰も犠牲になんてならないし、無理に誰かを幸せにしようなんてしない。まず自分が幸せになってから、じゃあ隣の人の幸せも考えてみようかという考え方。甘いのは百も承知。でも、理想論以外に、何から出発するんだ。僕はそういう思いでいっぱいだ。

 

話が反れた。

 

だからスポーツじゃなくていいんだ。

ただ、他の誰かが人を幸せにしようとするときにはスポーツじゃないかもしれないけど、僕がやるならスポーツだと思うんだ。

 

なんだ。結局スポーツなんじゃないか。

 

全然違う。

到達の過程によって認識は大きく変わるんだよ。

何の疑問もなく制服を着た奴と、「なぜ制服を着るんだろう」を経た奴とじゃあ、絶対に違う。制服を着るという目に見える結果は同じだけど、納得度とか、考え方の応用という観点でいえばそこには歴然とした差がある。

だから僕は、色々考えて、迷って、それでも続けてきて、問題だらけかもしれないけど、よかったと思う。本当はよかったと思うのはもうちょっと先であるべきなんだけど、まだ27歳だし、でもここから失敗してどん底に落ちても、僕は後悔しないと思う。力不足を嘆くことはあっても、自分の向かっていた方向が間違っていたとは思わないと思う。だから、後悔はないと思う。

 

なんだかよく分からなくなってきた。

 

とにかく僕は今日、朝からサッカーをして、昼からビールをたらふく飲み、夕方18時にして酔っ払っている。

昔、そういう大人を軽蔑していたけど、そういう大人になった今、そういう大人は貴重だと思うようになった。

この、真面目が人を殺す時代に、人を救うのはビールだと思う。

それほど健康を害しないし(研究の予算が欲しくてたまらないクソ研究者は、しょーもないデータを取り出して、たとえばプリン体とか、批判するんだろうけど)、身近だし、何より飲んだ後に感じるあの幸福感は他にない。

 

都合がいい。

 

言いたい奴には言わせておくよ。

どうせお前らはビールが飲めないだけなんだろ?

じゃあ黙ってろ。

もしビールが、神様が、この世界を恐怖に陥れるだけの、ただ戦争を生み出してばかりいる神様が残した、唯一の世界平和の手段だとしても、お前らはそれを否定し続けるんだよ。

 

俺らはビールが飲めない。

それだけの理由で。

 

そして俺は言うんだよ。

 

ビールこそ世界平和の象徴だ。

ただビールが美味しいという理由だけで。

 

 

世界はさ、独断と偏見と傲慢と暴力とお金と愛で成り立ってるんだよ。

とにかくさ、俺は人を幸せにすることをしたいよ。

だってさ、もう27年間も生きてれば気づくんだけどさ、いくら自分が楽しくても、一緒にいる奴が楽しそうじゃなかったら、人生を嘆いてたら、全然俺も楽しくないんだ。

だからさ、自分が幸せになるために、自分自身が幸せになることと、一緒に生きている人が幸せになる必要があるんだよ。その人のためでなく、自分のために。

 

そのために僕は、組織とスポーツ。

これを大事にして生きていこうと思うんだ。

僕はそこを一生懸命考えて生きてきたから。

 

まだ27歳の若造が何を言ってんだ。

 

そんなことを言うクソ馬鹿親父やクソ馬鹿ババアもいるだろう。

お前らは27歳を若造というかもしれないけど、俺にとって、考えて悩んで信じて生きてきた27年間(まぁ大半は何も考えずにつまらない競争心と保身のために生きてきたが)は決して短くないと思ってる。

俺が世界一嫌いなのはね、シソと自分のやり方や価値観を強制する人間と、さっきまだ27歳だしって言ったじゃんっていう人間なんだよ。

だからお前らがケンカを売ってくるなら、正直嫌だけど買ってやる。

俺はお前らの考えを認めるかもしれないし、今までの俺の考えを変えるかもしれないが、今までの俺を否定することは絶対にしないからな。俺は負けない。

負けないケンカならやってもいいよ。

 

僕の大学時代のゼミは「スポーツ組織論」。

正直入りたくて入ったゼミではなかったけど、思い切り影響されてる気がする。

ゼミの内容とちょっと違う気がするけど、なんだか導かれてるな、と思う。

 

これも結局、認知の問題なんだけど・・・。

 

 

やっぱ結局なんかよく分からなくなったな。

誰かを不愉快にさせたかな。

まぁいいか。人は同じじゃないから、誰かが幸せになるとき、誰かが不幸になるんだよな。

そのバランスが取れてることが、結局は平和ってことなんだろ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年11月18日 (木)

いじめ解決率だってよ!!!!!

文部科学省がこんなことを決めた。

 

文部科学省は17日、子どものいじめについて、これまで毎年公表してきた都道府県別の把握件数に加え「いじめ解決率」を来年から新たに公表する方針を固めた。群馬県桐生市でいじめを受けた小6女児が自殺したのを受け、各教育委員会、学校による対策を一層進める必要があると判断。都道府県別の解決率を公表し、どこが成果を上げたかを明らかにすることで、自治体の努力を促す考えだ。

~asahi.comより~

 

もう馬鹿丸出し。僕はこんなことしても全然意味ないと思う。

だってさ、いじめの件数を報告しろと言ったら、「うちにはいじめはありません」と言って、存在するいじめを黙殺するような現状だよ。

そんなときに「いじめを解決した件数を報告しなさい」って言ったら今度は、「おい、お前今あいつのこといじめてたろ。駄目だろ、いじめは。ほら、仲直りの握手をしなさい。はい、これで解決だな?そうだな?」とか言って、いじめにもならないようないざこざをいじめとみなして解決するか、解決できてないのに解決とするかするに決まってる。

やれやれだよ。

なぜ学校だけの問題に止めようとするんだ。学校は聖域じゃねーぞ。

警察を入れろ警察を。そこに犯罪があるんだから、警察を入れろよ。

警察もさ、見回れよ、学校を。そこに犯罪があるってわかってるだろ。そこで泣いてる子がいるって知ってるだろ、お前ら。お前らの仕事は何だよ。文科省にしろ、警察にしろ。問題解決の企画を提出することか。しょーもなっ!!

 

大事なのは検挙率。

逮捕して訴えろ!

いつまでちまちまやるつもりだよ。いつまで強い者の味方を続けるつもりだ。

 

 

まったく。

朝9時に興奮させんじゃねーよ。

 

もうさ、先生に逮捕権与えちゃおうよ。現行犯じゃなくてもいじめの実態を掴んだら逮捕してOK。

うーん。それはそれで先生の恐怖政治的なものが始まりそうで危ないかな。

 

とにかく、いじめはなくすんじゃなくて取り締まる!

僕はもうこれしかないと思うんだけどな・・・

 

 

ではまた。

 

 

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2010年11月11日 (木)

いじめをなくそうはいじめをなくせない

そういえばこの前、小6の子が自殺した事件を扱ったしょーもないワイドショーを観た。


ありきたりの「いじめをなくすには論」をしょーもない学者やしょーもないコメンテーター(コメンテーターって肩書きは一体何だ?)が展開していた。

子どもが子どもを守るしくみ作りのために、「私たちはいじめを許さない」という意味のリボンを胸につけるだとか、最近はインターネット上でのいじめが多いから、ネットの怖さを教える教育が必要だとか。

アホばっかだ。

リボンは論外だし、ネット教育はネット上のいじめを加速させるだけだ。ネットの怖さを知ったら、その怖さをいじめに利用するに決まってるじゃないか。


発想が間違ってるんだよ。


なくすんじゃない。
禁止するんだ。

そして禁じられたものを犯したものは当然罰せられる。

別にいじめ用に新しく法律を作れってんじゃない。


傷害罪だとか恐喝罪だとか殺人罪をそのまま適用すればいいよ。

それが最もいい方法だと、なぜ誰も言わない?

たぶんそれだと困る奴がいるからだろうな。

しらねーけど。

ではまた。

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2010年11月 6日 (土)

いやリンゴじゃ死なないよ

一つのリンゴを挟んで二人の人間が対峙したとする。

Aはこのリンゴを美味しいと言い、Bは不味いという。


ここに全ての人が幸せになれない理由があると思う。


人は思いやりとか愛とかいうものを持っているから、他人にも幸せになってほしいと思う。


AはBに「このリンゴは美味しいから食べろ」と言い、食べたBは不味くて吐いてしまいゆくゆくは死んでしまう。


逆にBはAに、「このリンゴは不味いから食うな」と言い、食べさせてもらえなかったAは悔しさのあまり死んでしまう。


どちらも相手を思うが故に相手を死なせてしまうんだ。

相手の意思を尊重するということははたして、思いやりや愛がないこととイコールになってしまうんだろうか。

もしそうなんだとしたら世界は、思いやりとか愛とか自由とか民主主義の名のもとに、強者のやりたい放題になっちまうじゃないか!

まぁ言いなりになる幸せもあるとは思うけどね。

俺は価値観を押し付けられるのが死ぬほど嫌いだから言いなりはごめんだけど。


ではまた。

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2010年11月 5日 (金)

色眼鏡

新しい眼鏡を買った。

そしたら前の眼鏡に比べて度が強すぎて、世界が歪んで見えるようになった。


電車のホームは曲がり、階段はたまに一段増えたりするようになった。


なるほどなと思う。


眼鏡を変えるだけで見てる世界は違うものになる。


ならば、他人と俺が違う世界を見ているとしても何ら不思議ではないよな。むしろそっちが自然。


俺がグレーと言うものを、他の誰かもグレーと言うかもしれないが、その誰かが言うグレーは、俺にとってのオレンジを言っているのかもしれない。俺にとってのオレンジを、誰かはグレーと言っている可能性は、完全にある。


世界はさ、60億個くらいあるよ。

ではまた。

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