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2010年12月

2010年12月31日 (金)

早寝早起きの僕だけど

昨日はROONEYSの仲間たちと麻雀をした。

今静岡に行ってしまっているメンバーが東京に帰ってくるときは、待ってました!と言わんばかりに麻雀をセッティングする。

今回は15時に3人だけが集まり、麻雀をスタートさせた。萬子の2~8を抜いて3人で打つやり方だ。僕はめちゃくちゃ調子が悪かった。

というよりも、麻雀よりもビールを飲む方が優先で、そして飲んでいるうちに、振り込むことを含め、負けるリスクよりも勝つ可能性ばかりを優先させていたのだ。アルコールは気を大きくさせる。

負けまくった。

しかし22時過ぎにもう一人が合流すると、僕の調子も上向いた。4人で打てたのは結局1半荘だけだったけど、いつものこのメンバーで麻雀ができたことが嬉しかった。たかが麻雀だけど、仲間と何かをするのって、やっぱりいいもんだ。

しかも今回、僕は大三元という役満を出した。最下位で迎えた最終局で、僕は親の役満 ―48000点の超高得点の役― であがり、一気にトップになった。

役満を出したのは高校の卒業旅行で出した国士無双以来だった。そのときはたぶんかなり夜が更けた時間だった。今回も午前2時くらいだった。どうやら僕の運気は、深夜に上がるらしい。

 

さて、明け方6時に解散した。みんな家で一度寝て、年越し前にまた集まる。

今度は我が家だ。

酒を飲んで鍋を食べて年越しそば食って、wiiやってテレビ見て、また除夜の鐘を冷やかしにでも行こうかな。

年末くらい馬鹿になろうぜい!!年中頭いい振りしてなきゃいけないんだからな!!

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月30日 (木)

liar

嘘つきっているんだよなと思う。

本当に信じられなかったけど、嘘つきという人種がいるんだよ。それを最近僕は、分かるようになってきた。

この人たちは、もうほとんど無自覚に近い感覚で嘘をつく。そしてこの人たちのつく嘘は、自分擁護の嘘がほとんどであることも分かってきた。

実にかっこ悪い。

嘘には人を幸せにする嘘があるが、そういう類の嘘ではなく、ただ自分を守るためだけに嘘をつく。誠実さの「せ」の字もない行為だ。

中には、ただ自分のプライドを守るためだけの嘘もある。それは僕にとってはどうでもいい。嘘で結果は誤魔化せない。嘘で誤魔化せるのはプロセスだけだ。人には見えない心理やら状況なら、そういうものしか誤魔化せない。結果を重んじる僕には実にどうでもいい嘘だ。

でもたまに、自分擁護を目的とした嘘が、自分以外の誰かに損をさせたり傷つけたりすることがある。これがすごく腹立たしい。僕が嘘つきを嫌いなのも、こういうことがあるからだ。別に誠実に生きてなくていい。でも、嘘で人を陥れるなんて、最低だ。こういう人大嫌いだ。

 

嘘をつく人は信用ができない。

ある一面でしかないはずだが、その人の全ての面が信じられなくなる。その人が言うことを、基本的には疑うようになる。だから、その人とのコミュニケーションは基本的には成り立たない。成り立っているように見えても、表面的なものでしかない。

 

僕はあまり嘘をつかないタイプだと思うが、もしかしたらちょっとした嘘をついていることもあるかもしれない。

そこは気を付けようと思う。

自虐だったり誰も不幸にしない嘘は、別にあっていいと思うが。ていうかたぶん僕、自分の気持ちとか説明するの面倒な時にはよく嘘をつく。でもそれはほとんどの場合、どちらかというと損をしているのは自分だから、僕の中ではついていい嘘と認識している。

付いていい嘘といけない嘘。

自分の価値観の中で一度考えてみた方がいいと思う。

嘘つきは本当にかっこ悪いから。

 

ただ、嘘つきになった本人が悪いのか、そうならざるを得なかった環境が悪いのか。

その議論は一生残る。

ていうか嘘つきに限らず、人格といったものすべてにおいて、責任を本人に押し付けるのか環境に押し付けるのという問題は、ある。

難しいから気づかなかったことにする。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月29日 (水)

ニューPC

今日はパソコンを買いに吉祥寺のヨドバシカメラに行った。

今まで使っていたPCはもう限界に来ていた。

大学2年の春くらいに買ったものだから、もう6年以上も使っていた。どこかで、ノートパソコンは2年使えばいいということを聞いたことがあるから、6年ももってくれたのは大したもんだと思う。

最後のほうは漢字変換にさえ数秒かかる始末だったから、もう限界だなと思って買い換えた。

 

ヨドバシカメラは相変わらず繁盛していた。特別混んでいたということもなかったと思うが、いつも通りに混んでいた。

僕はノートパソコンの売り場へ行き、目当てのNECのコーナーを物色していた。大体検討を付けたところでちょうど店員が話しかけてきたので、ちょっと話を聞いてすぐに決めた。およそ10万円のブツだ。詳しいことはわからないが、処理が速いと店員が言っていた。それに、パワーポイントが入っているのもうれしかった。

ここまではスムーズだった。そもそも僕は買い物で迷うということがほとんどない。今回もそうだった。しかし、会計を済ませるまでが凄く時間がかかった。

会計をしようとポイントカードとクレジットカードを出すと、クレジットカードだとポイントが2%引きになってしまう、と言われた。わざわざヨドバシで買い物をする理由はポイント以外の何物でもないから、それは困ると思った。しかし現金はない。そこで、「ヨドバシカメラのクレジットカードをお作りいただけると、カードでお買い物してもポイントはそのままつきます。さらにお支払月にはさらに1%ポイントがつきます」という店員の売り込みに飛びついた。年会費無料だしすぐに作れるというので、カードが増えるのは嫌だったがまぁいいかと思ったのだ。

申し込みカウンターに案内され、そこで申し込みをした。申し込み用紙に記入し提出すると、「今から審査をしますので15分後に来てください」と言われた。僕は上の階のタワーレコードに行って日本のパンクバンドをいくつか視聴し、15分後ぴったりに申し込みカウンターに戻った。

そこで僕を待っていたのは驚くべき言葉だった。店員は僕が記入した勤め先の電話番号を指さして言った。

「こちらの番号が6か0か分からなかったので審査が止まってしまっていました」

僕は唖然とした。僕が書いた字は6だった。たしかに丁寧に書いた字ではなかったが、明らかに0ではないように、僕には思えた。店員も、「6ですよね・・・」と気まずそうに言った。僕が6です、というと、店員は「すみません!すぐに審査を進めますので、もう10分ほどお時間いただけますか?」と言った。終わり次第携帯電話に連絡するという申し出をしてくれたが、僕はそれを断り、「いや、また10分後くらいに来るから大丈夫ですよ」と言ってカウンターを後にした。

もうさすがにタワレコに行く気はせず、家電のフロアを徘徊した。特に面白いこともなく、本当にただブラブラして、大体10分経った頃に戻った。

今度は審査が終わっていて、仮カードをもらうことができた。そこで受けた説明によると、公共料金の支払いなどでこのクレジットカードを使っても、ヨドバシのポイントが付くらしいのだ。これはすごいと思った。一体どれだけポイント貯まるんだよ。なぜこんな太っ腹なのか。いったいどういう仕組みなんだろうか・・・。

それはさておき、もらった仮カードでやっと会計を済ませることができた。ボーナスが入ったから一括で買った。

 

そして今、自宅へ持って帰ってさっそくブログを更新している。

スムーズな打ち込みと変換。実に快適だ。

こりゃいいや。

 

もしかしたらしばらくは、ブログが長文になったりするかもしれない。

しないかもしれない。

 

 

ではまた。

 

 

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ちゃんげ

突然だけどみんな、変わりたくはないかい?

変わりたいだろ?今の自分に不満だろ?自分を変えて、あの人を見返したいだろ?

 

変わりたい欲求って、すげーそこら中に溢れていると思う。

歌の歌詞にも、「you can change」やら「きっと変われるさ」をよく見かける。

あるいは政治家は決まって、「日本の政治は変わらなければならない」などと全く中身のない発言を堂々と言っている。それだけ「変わる」ということがほとんど無条件で歓迎されているんだ。

 

結構なことだと思う。変化。大いに結構だ。僕も変わりたいと思う時はある。例えばお酒で失敗した次の日なんかは、「もう酒は飲まない」と、生活習慣を変えたいと思う。もちろんそんなのは二日で忘れるわけだが。

 

この「変わりたい」というものについて、さっきふと思ったんだ。

隣にいる人が「俺は変わりたい」とか言ってるのを聞くと、いかにもかっこよくて向上心があって、とてもいい発言のように思える。

しかし一歩引いてみて、いや、一歩と言わず120kmくらい引いてみて地球全体を見下ろしたときに、この、大気と水に恵まれ、適度な温度の中で動植物に囲まれて暮らす人間たちが世界中で「俺は不満だ!変わりたい!変わりたい!」と言っているのを見たらどうだろう。何か気味が悪くないか?きっと遠くから快適な暮らしができる環境を求めてやってきた宇宙人が見たら、「え~!こいつら何言ってるの!?バカなんじゃないの!?」って言うよ。

 

チェンジもそこそこにしないとね。

満足することも大事よ。

僕たちヘビじゃないからね。

死なないよ。

脱皮しなくても。

 

 

ではまた。

 

 

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腐れ縁

昨日は年賀状を作って、夕方から飲みに行った。男同士のサシ飲みだった。

こいつとは高校からの付き合いで、知り合ってからかれこれ11年も経つ。しかも縁とは不思議なもので、今は同じ会社に勤めているのだ。

 

こいつとはいつも吉祥寺で飲む。昨日は安い居酒屋で1時間半ほど飲み、その後ハーモニカ横町あたりで2件ハシゴした。

話したことといえば、高校時代のテニス部のこととか結婚のこと。ROONEYSのことに会社のこと。共産主義と社会主義と資本主義のこと。中国と戦争のこと。別に何てことはない内容だ。最後の方は奴が終始、「お前は丸くなった」と言っていた。サシで飲むといつもこうなるんだ。「お前は昔の方がとがってて面白かった」と言うんだ。昨日も同じだった。そして僕は、「色々なことを知ってしまうと、簡単に物事を否定できなくなるもんだ」と、角の一切ないセリフを吐いて奴をガッカリさせた。

きっとこれからも奴は言い続けるんだと思う。「お前は丸くなった」って。お互いクソジジイになっても、たぶん言ってるんだと思う。それもまた、悪くないなと僕は思った。

 

18時前から飲んでいたからさすがに深夜0時前には飲めなくなって、帰った。

武蔵境のコンビニで『ウコンの力』とグレープフルーツジュースを買って、歩きながら飲み、家についてからお湯を沸かしてしじみの味噌汁を作って飲んだ。二日酔い対策は完璧だったはずだが、5分後に全部吐いた。

 

年末最高。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月27日 (月)

ビバ年末

今日は仕事納めだった。

仕事納めなのに、物凄くたくさんの仕事を、来年に持ち越した。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月26日 (日)

最後のM-1

いやー、とうとうM-1が終わった。

勝者、笑い飯。

決勝の3組が終わった時点でこれはスリムクラブが勝ったんじゃないかと思ってドキドキしたけど、さすがに審査員にもその勇気はなかったみたいだ。

 

全体的に面白かったけど、僕がとくに笑ったのはカナリア、ジャルジャル、ハライチ。笑い飯も笑ったけど、あれは鳥人という去年のネタの財産を食い潰す感じの笑いだったから、まぁそこそこくらいにしか笑わなかった。それよりも先に挙げた3組は、もう大笑いさせてもらった。やっぱお笑いはこうでなきゃと思った。カナリアのファイティングポーズ、ジャルジャルのジャルジャルワールド全開っぷり、ハライチのこれまたハライチワールド。こうでなきゃね!

まぁM-1は面白さを競う大会じゃないから、3組とも順位は超イマイチだったけど、 ―僕の趣味が審査員と大きく違うだけかもしれないけど― とにかく面白いネタが見れて良かった。楽しかった。

 

しかし笑い飯優勝しちゃったかー。

どうせならこのまま優勝しない方が長く芸人続けられる気がしてたんだけどな。

超余計な心配だけど。

 

さよならM-1。

 

 

ではまた。

 

 

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お湯割を疑え

昨日は横浜に飲みに行った。

横浜で飲むのは初めてだった。あ、横浜とっていも桜木町とかいう駅。

海に近いだけあって、風が強くめちゃくちゃ寒かった。

 

入ったお店は焼酎がたくさんおいてある居酒屋だった。

最初にビールを2杯飲み、次に焼酎を頼んだ。最近はお湯割で飲むようにしている。今まではずっとロックで飲んでいたが、ロックだとどうしてもすぐに飲んでしまい、結局飲みすぎることになることが多かった。もう飲みすぎるのは嫌な年頃になってきたので、ゆっくりと飲めるお湯割りにしているというわけだ。

もう何という名前の焼酎だったか忘れたが、一杯目の焼酎はとても旨かった。もちろん僕が飲むのは芋焼酎だ。

二杯目にはまた芋焼酎を頼んだ。忘れもしない、『さつま国分』という焼酎だ。またお湯割でオーダーした。運ばれてきたさつま国分は、一杯目のよりも大分少ない気がしたが、「こういうのって作る人のさじ加減だよな」と思っただけであまり気にしなかった。そして、今度の味はどうだろうと思いながら口をつけると、あまり味がしなかった。でも、この直前に食べたものの味が口に残っていたためだと思ってあまり気にしなかった。

ところが、口が落ち着いてからまた飲んでみても、まったく味がしなかったのだ。まだ四杯目で味がわからなくなるくらい酔うはずもなく、いよいよ僕は疑った。

 

これ、お湯しか入ってないんじゃないのか?

 

いやそんな馬鹿な!

とは一度思った。焼酎のお湯割を頼んでただのお湯がくるなんて!

お湯割を頼んだのにロックできたり、ロックで頼んだのに水割りできたことはこれまでにあったが、焼酎を頼んだのに焼酎がこなかった事例は今までにない。

しかしもう一度飲んでみてもやはり味はなく、これはいよいよお湯以外には考えられなくなった。

僕は近くにいた店員さんに恐る恐る言ってみた。

「あの、これ、さっき『さつま国分』のお湯割を頼んできたやつなんですけど、どうもね、お湯しか入ってないんじゃないかと思うですけど・・・」

店員さんはなぜかカウンターの向こうに隠れて焼酎の匂いをかぎ、すかさず「すみません!」と言ってどこかへ行った。

やっぱりお湯だったのかな、と僕は思った。

 

しばらくすると、さっきの店員さんとは違う若い青年の定員さんがやってきた。手には、さっきとは違ってなみなみに注がれた焼酎を持っていた。「大変失礼いたしました!」とだけ言って、焼酎を置いていった。何の説明もなかったが、どうやらお湯しか入っていなかったんだろう。そして持ってきた彼が失敗をした張本人なのだろう。「てめぇのケツくらいてめぇでふきやがれ!」とでも言われて来たにちがいない。何とも気の毒なことをした。でも僕は悪くないし、さすがにただのお湯に550円払う気にはならなかった。

しかし、一体どういう経緯でこのミスは起きたんだろうか・・・。普通焼酎入れてからお湯入れるもんだと思うと、きっと彼は、グラスに焼酎を入れたものだと思い込んで、空のグラスにお湯を入れたんだろう。いや、でもそうするとなぜあれだけ少量だったのかという疑問が残る。あの少量が示す事実は、「彼はお湯を入れた後に焼酎を入れるつもりだった」だ。ということはつまり、お湯を入れたところでなぜか満足して、そのまま提供してしまったということか。・・・まぁあり得ないミスではないのかもしれない。大体、焼酎なんて見た目同じだから、絶対に銘柄違いとかは起こってるんだろうなとは思っていたし、お湯も焼酎も見た目同じだから、どこまで入れたか何て一度目を離したらわからなくなってしまうこともあるんだろう。

うん、これは誰にでも起こりうるミスだ。

お湯割頼む時は気をつけようと思う。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月25日 (土)

いっつまいぱらだいす

パラダイスってあると思う?

パラダイスってのはさ、楽園のことだよ。楽園ってのはさ、たぶん楽しいところのことだよ。楽しいことばかりでさ、不幸なんてないところだよ。

 

そんなのあるわけないじゃないか。

 

ってか?

あるよね、パラダイスはさ。そこに不幸がなければいいんだから。

 

そこにずっといなければいいんだよ。

楽園はさ、ずっといるところじゃないんだ。

出入り自由だよ。

 

イメージとしての楽園は、あたかもそこにずっといて、働きもしないし戦争もしない、食べ物は十分で病気もしない。選挙もなければ詐欺もない。政治家もいないし、金持ちも貧乏もいない。そういうところだろ。

でも楽園ってのはそうじゃなくて、普通の現実に存在する一部なんだと思うよ、僕は。

ある人にとってはそれは家で、会社という地獄から帰った時のそこはまさに楽園なんだ。

またある人にとってはサッカーチームであり、戦場のような月から金を乗り越えてたどり着いた週末のサッカーは、まさに楽園なんだ。

まぁ正直、たまにそこで不幸を感じるときもあるだろうけど、でも相対的にそこは楽園。

 

たぶんそういうもんなんだろ。

ありもしない楽園を夢見るよりも、現実に確かに存在している楽園を認識する方がかなりお得で、楽で楽しい人生が送れるんだと思うよ。

すべての人が楽園を見つけられるといいよね。

 

うちの兄はずっとスポーツが苦手だったけど、スノボに出会ってからはそれこそがまさに人生といわんばかりに熱中して、とうとう草大会のジャンプ部門でこの前優勝したらしいよ。

どんな人にも、どんな人生にも、それぞれの楽園があるんだろうね。

 

ずっといられないからこそそう思う。

楽しすぎるからこそそう思う。

「ずっとここにいたい」

そういう場所。

 

そしてこれ、いい曲。

 

GOOD 4 NOTHING『It's My Paradise』。

 

 

そんな場所が人にも作ってあげられたら最高の人生だな。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月24日 (金)

年末

なんか最近、完全に思考停止気味で、ブログを書く時間がある時でも書きたいことが浮かばなくなってきた。

昔は世の中への怒りに満ち溢れていたから書きたいことがないなんてことがなかったのに、最近はそういうこともなくなってきてしまっている。

全ては仕事のせいだと思うが、仕事のせいってことはつまり、自分の不甲斐なさのせいってことだ。

 

とりあえず僕はリハビリをしようと思う。

まずは毎日書くことから再開しようと思う。ちょうど年末の休みに入ろうという時期だし、ちょうどいい。

日記みたいなのでもいい。とにかく毎日書くのだ。

 

というわけで昨日と今日のこれまでの出来事を。

 

昨日は4連休の初日だった。

まずは吉祥寺に、映画『武士の家計簿』を観に行った。久しぶりのバウスシアターだった。

映画館は恐ろしく混んでいた。まぁ小さいところだからちょっと人がはいっちゃえば満員になってしまうんだけど、文字通りの満員だった。隣の席に荷物を置いている人をしきりに係の人が注意していた。

映画はまぁまぁだった。特にメッセージがあるわけではなく、江戸時代末期の武士の生活の実態を忠実に描こうとした作品だったんだと思う。いや、忠実ってのは嘘だな。現代版のアレンジというか、現代に置き換えたらこうなるんだろうなというようなユーモアもたくさん散りばめられていたから。

客のほとんどはおじさんおばさんだったが、皆マナーが良かった。上映中にお喋りをする人はまったくいなかった。一度子どもが喋ったが不快なものではなく、むしろ微笑ましかった。やはり土地なんだろうな。新宿に集うおばさんどもならこうはいかない。映画を観に来たんだか、この後のお茶の会話のネタの為に来たんだか分らないような連中だからだ。

しかしスタッフロールが流れ出すとやはり動く人はいた。別にそれはいい。ちゃんと申し訳なさそうに途中退出するなら、それは憎むことではない。しかし、あろうことか隣の隣にいた高校生だか大学生くらいのカップルが喋りだした。コソコソと話してはいるのだが、「ケツがいてぇ」だの「あそこ面白かったね」だの、映画館を出ながら話せばいいようなことを話しているものだから、物凄く腹がたった。正直こういう人は、DVDがレンタル開始されてから、家でいちゃつきながら観ればいいと思う。その方が、世界中の誰にとっても幸せだ。いや、映画の興行主と映画館にとっては不幸か。しかしそんな細かいことまで考慮できない。

 

映画の後はヨドバシカメラの上にあるタワーレコードに初めて行ってみた。

BUMP OF CHICKENの新しいアルバムを試聴した後、一通り店内を見てみたが、やはりPUNKコーナーはなかった。それどころか、PUNKの試聴コーナーもなかった。これだからタワーレコードは嫌いなんだ。

ここは僕にとってはなくてもいい店だと判断し、BUMPは買わなかった。僕にとって存在が必要不可欠なHMV立川店で買おうと思う。しばらく立川に行く予定はないからすぐにBUMPを手に入れることはできないけど、それでもあんなしょーもない店で買うよりは100万倍マシってもんだ。

 

それから家に帰り、大掃除に着手した。

といっても隅々までキレイにするという性質の掃除ではない。目的は「不要なものを捨てる」だ。とにかく部屋を身軽にしてやろうと思った。

やってみると、出てくる出てくる要らない物。こんなにも要らない物に囲まれて生活していたのかとあきれた。

そして今日は、要らない物の内、本とゲームをBOOK OFFに売りに行った。全部で61点と言われ、それが1万円弱になった。内訳を聞く気にもならなかったし、まぁ1万円ならいいだろうと思って、全部売った。マンガは『PLUTO』、『ブラックジャックによろしく』、『ROOKIES』を売った。

それからいらない服やらを処分したところで、掃除に一旦飽きた。

飽きて、それから本を読んだ。百田尚樹の『錨を上げよ(下)』。

まだ読んでのかよ、と思うだろう?長いんだよ、あれ。村上春樹の『1Q84』の全3冊分くらいある。しかし今日、やっと読み終えた。

長編小説らしく、ローテンションで大した盛り上がりのないまま下巻に突入していたこの小説、結局そのまま終わってしまった。つまらないわけではないし、いくつも折り目をつけたページはあったが、物語としては別に面白いということはなかった。百田尚樹にしては珍しい展開だった。『風の中のマリア』もそうだったが、この人は今、「愛」について書きたい時期なのかな、と思った。『錨を上げよ』の主人公は、とにかく愛に生き、愛に振り回された男だった。そういう類の、青春小説だ。

そういえば、「愛に生きてみたい~」って歌詞が、jaskyの歌にあったな。それを初めて聞いたとき、俺もそんな風になってみたいなと思ったっけ。何か懐かしいな。

 

さて大掃除。

まだまだいらない物は出しきれてないと思うが ―そもそもロフトに着手していない― まぁ今日のところはこんなもんだろう。まだ28日も29日もあるし。あわててやる意味はない。どうせ31日にはROONEYSのみんなによって汚されるんだしっ!

 

いやしかし、年末って楽しいな。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月20日 (月)

才能なしリーマン

ぐさってくる言葉ってあるよね。

チビとかデブとかハゲとかさ。

小さいとか早いとか物足りないとかさ。

冷たいとか優しいだけじゃ駄目なのとか嫌いになったわけじゃないのとかさ。

 

今日、帰りの電車で本を読んでて―もちろん百田尚樹の『錨を上げよ(下)』だけど―ぐさっときた。

それがこれだ。サラリーマン諸君、覚悟して読むがいい。

 

「そりゃ、兄貴はすごいよ―でも誰もが商売の才能があるわけじゃない」

「そらそうや。サラリーマンいうのはほかに何の才能もない奴がやるんや。学者にも芸術家にも商売人にもなれん奴が、生活のためにやる仕事や。それを大企業におるいうだけで、ふんぞりかえっとる奴は大笑いやで」

「でも与えられた仕事を一生懸命やるのは当然やないか」

「そらそうや。お前も頑張れよ。十億の取り引きを成功させて、ボーナスをほかの奴より五万ほど余計にもらえ。会社に百億ほど儲けさせて、誰よりも先に課長にしてもらえ」

~百田尚樹『錨を上げよ(下)』より~

 

もうすげーぐさっときた。

ぐさっとくるってことは、納得できるってことだ。

まぁ僕の場合はいいよ。ほかに大した才能はないし、正直生活のために仕事をしてるだけだし。でも僕は本当にショッキングだったのは、「とはいえ会社には優秀な人がたくさんいる」ってことなんだ。

あれだけかっこいいプレゼンをしても、結局は彼の功績としての金は会社に吸い上げられ、そのおこぼれとしてのちょっとしたサラリーをもらう。

あれだけのヒット商品を生みだしてもそうだし、あれだけえらそうにしててもそうだし、いくらテレビに出たところでそうだ。

みんなあんだけ優秀なんだからさ、会社やめればいいのにって思ってしまったよ。

 

いくら優良企業とか言われれても、結局は人を食いもんにしてんだよな。

 

サラリーマンアーメン。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月18日 (土)

勝った奴は偉そうに何でも言えるが、別になんてことはない。

今、百田尚樹の新作『錨を上げよ』を呼んでいる。やっと下巻も中盤に差し掛かったところだ。

これは一人の男の少年時代からの人生を描いているのだけど、人生について―というよりも「成功」について―なるほどねと思うことが書いてあったので紹介しとこうと思う。

 

(前略)しかしマスターに言わせると、麻雀くらい謎に満ちているものはないということだった。「このゲームほど人生を感じさせるものはない」というのが彼の口癖だった。

「俺の言う『人生』とは一局一局のことだ。振り込まないのは腕だ。たとえ自分以外の三人がテンパイしていたとしても、手のうちの十四枚のすべてが当たり牌ということはまずないんだ。だから十分な読みさえあれば、まず振り込むことはない。しかし腕だけではどうにもならないのは“上がり”だよ。チー、ポンシタッテ駄目な時は駄目だ。他人の喰いがあって流れが変わるのも運さ。食って良くなる時もあれば、悪くなる時もある。捨て牌と手牌の全部を合わせたって一面子だってできない時もあるんだ」

 彼が人生の成功と失敗の喩えを言っているのはわかった。要するに、失敗は腕で防げるが、成功は腕だけではできないと言っているのだ。

~百田尚樹『錨を上げよ(下)』より~

 

麻雀をやってる人の中には、麻雀の全ては腕にかかってるという人もいるだろうけど、僕みたいにただの娯楽としてやるような人は共感できるんじゃないかと思う。

そして人生においてもそうなんだろうなとも、容易に想像できる。一生懸命勉強して仕事して―手を作って―、やっと夢に手が届きそうな場合にも―テンパイしても―、最後そこに届くかどうかは―上がれるかどうかは―、結局は運次第ということになり、確率なんだと思う。上がれる確率を高めることはできるが、それが100%になるということはない。イカサマでもしない限り。

成功者が色々言うけど、結局それのほとんどは運が良かっただけなんだと思う。もちろん確率を上げる作業を着々と進めてた人もいるんだろうけど。

そして中には100%運という成功者もいる。それが家系とか家柄によるものなんだろう。生まれた瞬間に金持ち確定みたいな奴は、麻雀で言うなら「天和(テンホー)」という役満だ。もう完全に運かイカサマでしかない。

 

もうひとつ、「成功」についての面白い場面があった。

 

(前略)

「いいか、要するに何でも枠があるんだ。当たりの枠、はずれの枠だ。その数は決まっている。もちろん社会と時代で変化はするがな。誰かが当たりの枠に飛び込んだとしても、それは偶然にすぎん。そいつが入らなきゃ、別な誰かが入っている。たとえば総理大臣にしても同じだ。日本国の首相になるには偶然と幸運でできた針の穴のような細い道を通らなければならないと思われてる。しかしそいつがいなければ、所掌の枠は空いたままなんてことはないんだ」

(中略)

「大蔵省の事務次官にしてもそうだし、大相撲の横綱にしてもそうだ。レコード大賞歌手もそうなら、囲碁の本因坊だって、ダービー馬だってそうだ。さらに言うなら、しばしばカリスマと呼ばれるスーパースターの存在もそうだ。たとえば美空ひばりだってそうなら、長島茂雄だってそうなんだ。彼らがいなければ、彼らに代わる別な超人気者が生まれていたことは間違いない。なぜなら彼らは時代が要求した存在だったからだ。そういう意味ではシーザーやナポレオンや徳川家康といったところも同じなんだ。彼らもまた非常に特異な時代が生み出した稀有な枠の中に飛び込んだ存在にすぎないんだ。坂本龍馬やヒトラーだって同じことだ」

~百田尚樹『錨を上げよ(下)』より~

 

彼はこの後、でも科学者と芸術家は別だ、と言及している。

そうなんだろうな、と思った。特に、日本の首相の例えは実に分かりやすい。あそこはただの枠でしかないのはもう国民全員が感じていることだろう。まぁもちろん、そういう風土にしたのはマスコミであり、マスコミに見事なまでにコントロールされている国民なんだろうけど・・・。

違う。枠の話だ。たしかに、結局は枠なんだと思う。成功するかしないかってのは、その枠に入れるかどうか。しかも、他の人よりも早く。

「新しく枠を生み出す人もいるんじゃない?」という反論が聞こえてきそうだが、それも結局はあった枠なんだと思う。新しいとか、今までなかったというのは、それはその人にとってという問題であって、全体でみるとその枠は最初からあった。あるいは、他の枠が姿形を変えて現れただけかもしれない。おそらく、“新しい枠”の出現には、既存の枠の消失が伴っているんだと思う。

 

 

まぁ・・・だから何だということは、何もない。

ただ面白いと思っただけ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月14日 (火)

ゴムゴムの細分化

今日は会社の帰りに本屋へ行った。

本を持ってレジに並ぶと、僕の前に並んでいた少年の番になった。制服を着ていてお母さんが付き添っていたからおそらく中学生なんだろう。

彼はポイントカードを2枚もって、「これ合体できますか」と言った。

レジの店員は「はい、できます」と言って2枚のカードを受け取った。

レジでなにやら操作を始めたが、明らかに何らかのエラーを告げる音がレジから響いて生きた。店員の胸には「研修中」と書かれたバッヂがつけられていた。

しかしこの店員は賢明だった。すぐに助けを呼んだのだ。キョロキョロするでもなく、堂々と仲間を呼ぶボタンを押した。

店内に爽やかな音楽―それがSOSの合図なんだろう―が鳴り響き、もう一人の店員がやってきた。

 

彼の胸にも「研修中」の文字があった。

 

しかし彼は堂々と、こなれた手付きでポイントカードを見事に“合体”させた。

同じ「研修中」でも、違うもんだな、と思った。

 

それもそうか。僕が卒業した小学校では、水泳の級を示すのに帽子を用いていた―赤帽→白帽→紺帽の順に進級していく―が、それぞれの帽子の中でも級が別れていた。それにはゴム線を用いていた。赤帽なら、白線1本→2本→3本→黒線1本→2本→3本を経て、白帽に進級するのだ。

ただの赤帽(線なし)と赤帽黒線3本とでは、かなり技量に差があった。

それと同じで、「研修中」も決して同じではなかったということだ。

 

これは会社でも同じことがいえる。

大体会社員は、初対面の人であれば年次でその人の技量に“アタリ”をつける。経験というものは実に偉大なものだから、妥当な手法だとは思う。しかし実際に仕事をしてみると、帽子しか見えていなかった状態からゴム線が見えるようになってくる。そうすると、「あ、この人は赤帽の黒線2本だな」とか、「まだまだ赤帽白線1本だな」とか、最初につけたアタリを調整したりするんだ。

たぶんどんなシーンでもそうだ。

まずはその人の帽子が何色なのかを見る。そして徐々に目を凝らしてゴム線を見ようとする。そうやって人はなるべく人を細分化し、個人として見るようになるんだ。

 

 

とはいえたまに、ゴム線を見ようとしない人はいる。

帽子の色だけの分類にすべての人を当てはめて、「あいつは赤帽だから」とか「お前はもう紺帽だろ」とか、何かと決め付けてかかるんだ。

二人目の「研修中」を見たときに、「お前もかいっ!」と思った僕も、あるいはそういう人種だったのかもしれないな。

ならば改めようじゃないか。

目を凝らしてゴム線を見つけようじゃないか。

 

 

ちなみにこれは、人のランク付けを推奨するものではない。

一括りにするなということが言いたいだけだ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月13日 (月)

人生には理系も文系もねえぞ

人は変わっていくものだ。

一貫した生き方をカッコイイと思う価値観はあっていいと思うが、いつまでも考え方の変わらない奴の中には、たまに気の毒になるほど狭い価値観の中に生きている奴がいる。
いや、狭い価値観が悪いとは思わない。例えばダーツの的が真ん中の最高得点の部分しかなくても、そこにさえ当てられるのであればそれでいいように、別に狭いから悪いということはない。

ただ、外したらどうかということだ。そんな、100点か0点の人生に、お前は耐えられるのかということだ。

あ、すげーどうでもよくなった。


正直、何を言いたかったのかを忘れたし、バスに酔いそうだし、どうでもいいし。


とにかく俺が言いたいのは、変わることも変わらないことも、どちらも主体的でありたいよね、ってことなんだよ。

気がついたら、「俺も歳をとったよ」なんて言ってるなんて、絶対に嫌なんだ。

変わるなら考えた上で変わりたい。変化を不本意だなんて言いたくない。


なーんつってな。


成るようになるさ。成るようにならないなら、何とかするさ。


ではまた。

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2010年12月12日 (日)

履き違えポリス

「はいはいはい、ちょっと止まって~」

 

お巡りさんが自転車で走る僕を止めた。

しかし僕は止まらない。聞こえていないからだ。イヤホンで耳の穴を完全に塞ぎ、そこから大音量の音楽を垂れ流してる僕に、お巡りさんの声は届かない。

それに気づいたお巡りさんは自転車を漕ぐ足に力を込めて僕の横に並び、僕の視界に入ってから再び僕を止めた。さすがに僕も気づき、大人しくブレーキをかけて静止した。

 

「ライト付いてないよね」とお巡りさんは言った。

「はい?」と僕は言った。まだイヤホンを付けたまだだった。

お巡りさんは懐中電灯を手に持ち、自転車を降りた。そして僕の顔に懐中電灯の光を当て、「ライト、ライト」と言った。

僕は眩しさのあまり顔を背けた。この夜中に突然目に直接ライトを当てられたのだ。しばらくは目が機能しないだろう。

ところがお巡りさんはお構い無しに僕の自転車のハンドルをとり、揺らした。「降りろ」ということなんだと思う。そう思ったわけではなかったが、僕は無意識に自転車を降りた。目はまだ見えない。

お巡りさんはそんな僕を横目に、防犯登録の番号を調べ始めた。無線を使って何か喋っている。

「名前は?」

徐々に目が機能を取り戻してきた僕はそんな問いかけを無視してお巡りさんに言った。

「ねぇお巡りさん。教えてほしいことがあるんだ。どうしてライトを付けなきゃいけないんだい?」

お巡りさんはふんっと一度鼻で笑ってから言った。

「あのね、法律で決まってるんだよ。夜間はライトを付けなければならないってね。罰則もちゃんと決められてる。君が知らないだけでね、世の中にはたくさんのルールがあって、それを知っていても知らなくても、それには関係なく、ルールを犯した者には罰があるんだよ」

お巡りさんは言いながらも作業をやめなかった。といっても僕は名前を答えていなかったからお巡りさんの作業は進むはずがなかった。たぶん、作業をしながら答えることで自分の言っていることが実に当たり前で常識的で疑う余地のないものだということにしたかったんだろう。

「お巡りさん。不正解だよ」と僕は言った。

お巡りさんが手を止めて僕を見た。ライトは向けてこなかったから、僕はお巡りさんと目を合わせることができた。

「法律だとかルールで決められてるから、それを守らなければならないなんてのは、何の説明にもなってないよ。法律やルールは何でつくられるんだ?それが守るべきものだからだ。少なくとも、作った人はそう考えたからだ。ところが法律やルールってのはきまっていつの間にか知らないところで出来上がっていて、勝手に押し付けられている。なぜそれが出来たのかなんて、僕たち庶民には伝えられないんだ。だから僕は聞いてみたんだ。『なぜライトを付けなければならないの』ってさ。それはつまり、ライトを付けなければならないというルールはなぜ作られたのか、というものだったんだよ。なのにお巡りさんから返ってきた言葉はこうだ。『ルールがあるから』。溢れんばかりのしたり顔でね」

と僕はここで一度言葉を切った。この言い分は、実に卑怯だと思ったからだ。お巡りさんの態度があまりにも気に入らず、怒りに任せて一息で思うがままに言ってしまったにすぎない発言だった。なのに、「お巡りさん、あなたは頭が悪いですね」と言わんばかりの内容だった。

「お巡りさん」と僕は改めて話を展開させた。

「そんなことはどうでもよくて、僕はね、お巡りさんにもっとカッコイイ答えを期待したんだよ。法律とかルールで決まってるとかそんなんじゃなくてね、一言『危ないから』と言って欲しかったんだ。僕だって好き好んでライトを消しているわけじゃないんだ。これはね、電池がさっき切れただけなんだよ。僕のは単三電池4つで付くライトだからね。お巡りさんの仕事はわかるよ。犯罪を取り締まるのは大事なことだよ。でもね、それを目的化するのって、何か違うんじゃないかな。僕はさ、お巡りさんの仕事は地域の平和を守ることであって欲しいと思うんだ。犯罪を取り締まるじゃなくてね。もちろん、平和を守るという目的のための手段として、犯罪を取り締まるはあって然るべきだと思うし、そこは是非お願いしたいところだよ。でもさ、犯罪を取り締まるために『犯罪はね゛ぇが~?』とか言って、まるでなまはげみたいに市民をギラギラした目で睨みつけてさ、何か目的が違うんじゃないかと思うんだよ。もっとさ、困ってる人を探すべきなんじゃないのかな?そこに犯罪があるならお巡りさんの出番だよ。なのに僕から見えるお巡りさんたちの行動や態度はさ、とてもじゃないけど困ってる人のためにあるものじゃないんだよね。そこへきてお巡りさんの答えだよ。あぁやっぱりなって僕が思うのも仕方ないと思わない?ねぇ、お巡りさん」

お巡りさんはずっと下を向いていたが、僕がいい終わると顔を上げ、「思わない」と言った。

 

 

 

 

 

 

 

嘘だ。

全部妄想だ。

 

でも、お巡りさんが何か木刀みたいなのを地面に突き刺すようにして交番の前に仁王立ちし、市民に向けて睨みをきかせてるのを見る度、違う、と思うんだよね、僕は。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月11日 (土)

中庸とか中道とか重心とか赤道とか

僕にはどこか原点回帰を良しとするような思想があって、基本的には世界はどんどん悪い方向に進んでいて、人類はまるで人類を滅ぼすために存在しているような気がすることもあるんだけど、でも、昔はもっと悲惨で残酷な世界だったんだなぁと思う。

争いは世界中にあったし、もっと簡単に人の命を奪っていた。

そう思うと、人間は良い方向に来ているんだなとも思う。

でも同時に、一体人間はどこで立ち止まるべきなんだろうとも思う。

このまま行き過ぎるのは危ない気がするが、簡単に人を殺す時代にも戻りたくない。

僕たちにとって最もいいポイントってのは、この3次元の空間にどこにあるんだろう。あるいは、時間を含めた4次元のどこにあるんだ。

 

どこかで止まらなきゃいけない気はするんだけど、それがどこだか全然分らないから、結局突き進むしかなくなる。

まるで太平洋戦争のときの日本みたいだ。

 

それとも人類はまだ、止まるべきポイントには到達していないのかな。

全然わかんないな。

そろそろ止まってもいいんじゃないかなと、僕は何となく思うんだけど。

だってもう、僕たちはすでにコンピューターに支配されているも同然なんだから。

進めば進むほど、僕たちは支配されていく気がしてならないんだ。

 

知らねーけど。

 

 

司馬遼太郎の『関が原』を読んでなぜかこんなことを思った。

バカだから。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月10日 (金)

人間はすでに弱者

システムってのは、何の為にあるのか。

いろいろあるんだろうけどさ、突き詰めていくとさ、人間の不完全さを埋めるためにある気がするんだよ。

人間はミスをするけど、それを制御し、人間にとって都合のいいアウトプットを出してくれたり、それに近しいものを出してくれるのがシステム。そういうことをするのがシステムの存在意義だと思う。

でも、システムが人間に完全を求めだしたら?

人間の不完全さを、システムが否定し出したら?

それはさ、おかしいんじゃないかね。

 

「これはシステム上のルールに則ってません。だから出来ません」

「入力していただいたデータですが、これは15時までに締め切りました」

 

システムも完全じゃないから、ある程度人間の努力に依存する点はあってもいいと思う。

でも、システムの存在意義を考えるなら、それをそのまま放っておいていいとは思えない。

システムはシステムだ。

システムは人間じゃない。システムに同情する義理はない。

なのに、なぜシステムに苦しむ人間がいるんだ?おかしいだろ。

なのに、そのシステムを愛する人間が、システムを守るばかりに、人間の不完全さを批判するんだ。

その非完全さを埋めるためのシステムがあるが故に、人間の不完全さが批判される。

これほどおかしい話はないだろう。

そんなシステムは、もはやシステムではない。

なんとなくエクセルを使い、何となく人と共有するサーバーとか何とかを使い、何となく入力してる感を装い、システムっぽくしてるだけだ。

システムを、システムとして機能させるために、人間に苦労をさせる。

 

あぁ。

そんな糞システムが、実は世の中にはたくさんあるのかもしれないな。

それとは別に、僕らはもはや、システムなんて大きくてあやふやなものじゃなくても、パソコンとかネットワークとかなんかよくわからないものに振り回されているわけだけど。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月 6日 (月)

70円の得と60円の損

今日の昼飯に、マクドナルドのビックマックセットを食べた。

普通なら650円するところが、平日のランチタイムは590円なのだ。その差60円。

ところがレジでビックマックセットを注文すると、「520円です」と言われた。

ん?と思った。僕はこの時間のビックマックセットが590円だということを熟知している。しかし僕が知らないキャンペーンだか何かがあるのかもしれないから、僕は遠慮気味に「520円ですか?」と聞いてみた。

するとしばらくレジの画面を眺めた後に店員さんが、「あ、すみません!」と言った。

僕は、「そうだろう、そうだろう。いいんだよ。僕はたった70円を誤魔化す気なんてないんだよ」と心の中でつぶやき、店員さんの「590円です」を待った。

ところが次に店員さんの口からはい出てきた言葉は、「すみません、650円ですね」だった。

 

通り過ぎるんかーいっ!

 

とはさすがに言えず、本来店から客に提示する意味で置かれているメニューのビックマックセットの部分を指さし、「ほら、590円ですよ?」と僕は言った。

すると店員さんはきょとんとした。完全にきょとんとした。これほどまでにきょがとんとすることはないだろうというくらいに、自分が置かれた状況を理解できていないようだった。

 

わかってないんかーいっ!!

 

ともさすがに言えず、「ほら、ここに平日の11時から14時の価格って書いてありますよね?」と説明すると、やっとわかったらしくレジを操作し始めた。

600円を出し10円のお釣りをもらう頃には、ビックマックセットが準備されていた。

その店員さんが申し訳なさそうな態度を終始しなかったことがとても面白かった。

きっとあの天然さん店員さんは、かつてあった「スマイル」を頼んでもレジをお金を請求してくるんだと思うよ。

それでたぶん先輩店員に聞くんだ。

 

「先輩、スマイルって、レジでどうやって打つんですか?」ってね。

 

 

ところで、70円の得を見逃すのは「損」というべきだろうか。

「言うに決まってるだろ」と言うあなた。

おめでとうございます。

あなたこそ資本主義社会を体現するスーパーマンだ。

スーパーウンコマンだ。

 

 

ではまた。

 

 

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2010年12月 4日 (土)

オンリー論理ーグローリー

「頭が痛いからウンコをする」

 

は?

って思うよね。

頭が痛いならバファリンだろって思うよね。ウンコをするのは腹が痛いときだろって思うよね。

論理的じゃないよね。AだからBになってないよね。

 

でもさ、頭が痛いからウンコをするのが論理的じゃないって、何で言える?

腹が痛いからウンコをする、がみんなに納得されるのは、「ウンコをすると腹痛が治る」ということを知っているから。その前提があってはじめて、「腹が痛いからウンコをする」は世間に認められるんだね。

じゃあさ、ウンコをしても腹痛が治らないなら?

そしたら、「腹が痛いからウンコをする」はてんで論理的じゃなくなるんじゃないかな。

あるいは、腹痛がそもそも治すべきものじゃなかったら?ここが、腹痛こそ神のお告げと考えられる国だったとしたら?腹が痛いからってウンコしちゃダメだよね。

 

 

結局さ、論理ってのは何らかの前提の上にしか成立しないものなんだよ。

そしてその前提ってのは、とことんさかのぼって行くと、たぶん大体文化か価値観に落ち着くと思うんだよ。

んでね、僕たち人間が同じ文化をもち、同じ価値観を持っているかっていったら、そうではないんだよ。

だからね、実は論理ってのは存在しないわけ。

論理的とか論破とか言うけど、誰も論理的じゃないし、誰も誰かを論破なんてできない。論理なんてないんだからね。

 

よく誰かを論破しているひとはね、別に論理的なわけじゃないんだ。ただ、押しが

強いんだよ。あいてと前提を共有できていなくても、自分の前提に成り立っている自分にしか理解できない論理を押し付けるのが上手なだけなんだ。

 

もどかしいのは、そんな奴らは自分のことを論理的、と思ってることだ。

声がデカイとか、強迫的であるとか、人の話を聞かないとか、そういうことだけなのに。

ま、どうでもいいけど。

 

 

ではまた。

 

 

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