哲学的な

2008年10月21日 (火)

原子の大きさに対して僕らはなんて大きいんだ

物質の構成単位である原子(ちなみに最小単位ではない)の大きさはおよそ1オングストローム。

※オングストロームとは、1メートルの100億分の1。

それに対して人間の大きさは身長1~2m、体重30~200kgといったところ。

 

僕らはなんでこんなサイズでなければならないのでしょう。

僕が先日読み終わった本、「生物と無生物の間」(福岡伸一、2008)ではここから生物学的な、より専門的な話に入っていきました。

 

でも僕はここで立ち止まり、もっと簡単な、誰にでも考えることができる領域に入っていくことにしました。

原子が何なのか僕にはよく分かりませんが、僕たち人間を構成する単位であることに間違いはありません。

そしてもし、僕たち人間の存在する目的が「ただ存在すること」であれば、僕達は原子をこんなにたくさん集めて巨大になる必要はなく、ただ原子のままいればいいはず。

でも現実に僕らはそうではない。

じゃあ生物であるためか。

原子が生物かどうかは分からないし、そもそも生物って何だって感じですが、そこは置いといて、人間の存在する目的が「生物として存在する」であれば、原子は集まって何らかの組織を構成し、生物とならなければならなかったのでしょう。

でも、ただ生物として存在するだけでもこんな巨大である必要はない。微生物の方がよっぽど効率がいいし、生存率も高い気がする。

 

ここまできて僕は面倒くさくなりました。

分かるわけがないと。

何で人間がこんなにも巨大でこんな形をしているのかなんて。

だから僕は、ある意味では神様の存在を認めようと思うのです。

まぁ別に神様の存在がなくてもいいのですが、人間はこうなるべくしてなったというか、そういう運命だったというか・・・。

つまり、人間の存在は否定のしようがないということ。

僕はそこに行き着きました。

ただ生存・子孫繁栄のためだったらこんな面倒な形になる必要はなかったであろう僕たちが、今こうであることは、もうどう頑張っても否定できない。

だからもう、神様的な存在が作ったというのがいいんです。

そう考えると人間そのものを認められるようになってきます。

こんな奇妙な生体が何をしようともう驚かないぞという風に。

環境破壊も戦争も別に普通。何なら起るべくして起っている問題なのです。

もちろん、だから放置しておけということではなく、それらを、当然人間がするであろうことだったと捉えることが大事なんだと思うのです。

よく僕は他人を反面教師的に見て「あの人はなんであんなことをするのだろう?」とか思ってしまいますが、もともと意味の分からない生物である人間なのだから、その行動だって意味分からないものでいいんですよね。

だからね、一旦すべて受け入れてしまえばいいんです。

気に入らないこともあるけど、それも受け入れる。その上で批判をするってのがいいと思います。

そうすれば人間みんな滅べばいいなんて思わず、より現実的な問題解決ができる気がします。

 

原子の大きさと人間の大きさを比較し、人間の否定できない存在を知る。

そして人間を認める。

人間の行動を認める。

批判する。

 

自分でも何を書いてんだかよく分からなくなってきましたが、要するに人間そもそもを否定する場合、生物学の領域から否定できなければ駄目だってことで、それは無理だろうから、完全に人間を否定して生きるのではなく、受け入れていこうってことで、これは僕が僕自身にただ言い聞かせたくて書いただけのことなのです。

だから意味分からなくてもいいんです。

僕が分かってれば(笑)

 

でも原子の大きさを想像すると、人間ってのはもはや宇宙だよね。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

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2008年1月 9日 (水)

いい死に方をするために生きる

以前友人とこんな話をしたことがあります。

「自分が寝たきりとかになったり、痴呆とかになって家族を困らせるだけの存在になってしまったらどうする?」

僕がそう聞くと、友人はこう答えました。

「そうなったら死にたい」

僕は言いました。

「もしかしたらそういう風になったら『死ぬ』というアイデアはないかもしれないけどな」

 

僕はまだ若いし、その友人も若い。

だから簡単に「死ぬ」とか言えるし、現実じゃない世界の出来事のように自分の死を考えることができてしまいます。

僕らは年寄りになったことがないから分からないだけなのかもしれないのに。

ちょっと前に読んだ本でこう書かれていました。

 

筋力が低下すると、起き上がれない、着替えられない、入浴ができない、食事、洗面、歯みがきもできない、寝返りも打てないということになります。さらに進むと、声も出にくい、食事も飲み込めない、息をするのも苦しいということになる。(中略)いくら長生きといっても、そこまで望まないという人も多いでしょう。しかし、今、寝たきりになっている九十歳代の人たちも、思いは同じだったはずです。望みはしないけれど、生きてしまう。それが現代です。適当な時期に死ぬというのは、なかなか難しいことなのです。

久坂部羊「日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか」より

 

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死にたくても死ねないんだと、僕はこの本を読んで真剣に考えるようになりました。

だったらどうしようと。

それから僕は、自分の最期を自殺にするのも有なんだと思うようになりました。

こんなことをいうとちょっと危ない人のようにも思えるかもしれませんが、死にたくても死ねない状況になる前に死ぬしかないんです。

死にたい時に死ぬためには。

でも人は死のうとしない限り生きてしまいます。

病気や事故、殺されるといった場合は死のうとしなくても死んでしまいますが、ある程度のところまで生きる人の方が多いでしょう。

だったら死にたくても死ねない状況になる前に死ぬためには、やはり自殺しかないんだと思います。

 

ただ今自殺は、辛いことから逃げるための手段で使われることが多いからいい印象をもたれないんでしょう。

でも、もういいか、十分生きた、これからの人生で今よりよくなることはない、そう心から思えた瞬間にする自殺は僕は実はいいんじゃないかなと思うんですね。

もちろんその判断は難しいし、そんな瞬間は一生訪れない可能性はかなり高いとは思いますよ。

でもそう考えとくのは悪くないなと思います。

 

「最期は自殺」と考えることは常に死を意識して生きることです。

「死」を意識することは「生きる」を意識することと同じだと思います。

そういう意味でも、自殺を考えておく事は悪くなさそうだと、僕は思います。

 

もちろん天寿をまっとうするという哲学も有だと思います。

ただそこを目指すにはそれ相応のリスクが伴うことを知っていた方がいいという話です。

僕はそれは恐いので、“いい時に”死にたいなと思うんです。

 

あ、でもあくまで僕の理想に死に方は、トラックに轢かれそうになっている子供を助けて自分が犠牲になる、です。

 

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そしたら僕も生き返る試練与えられると思うんですよねー。

お前はそんなことをして死ぬべき人間じゃないってさ。

 

★★ 本日の英語 ★★

You're not nothing, you're less than nothing.

MxPX「NOT NOTHING」(アルバム「SECRET WEAPON」)より

 

 

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2007年10月17日 (水)

四次元世界とは

今僕は、「2112年9月3日、ドラえもんは本当に誕生する!」という本を読んでます。

実に面白い本ですよ。

何かよく分からないけど、結局は量子力学の本ですね。本当によく分からないんですけど。

でもね、こういう本は素人が見ても面白い。

科学者とかって本当にぶっ飛んでるからね。

頭がね。頭がぶっ飛んでるんだよ。

でも、僕はそんなん大好きなんですわ。

 

というわけで今日は四次元について面白い記述があったので紹介してみます。

 

この本では四次元を、「縦・横・高さ・何さ」の世界と捉えています。

「何さ」って何さと突っ込みたくなるだろうけど、まぁそこは流して。

普通四次元っていうと、3次元+時らしいんだけど、ここでは“何さ”です。

何さを説明するのは無理なので、本で紹介されてる例を紹介します。

 

たとえば、今、あなたが自宅のリビングに座っているとします。そして同時に勤務先のオフィスの様子を、頭に思い浮かべてください。

すると、現在リビングにいながら、「オフィスの机の上に大事な書類を出しっ放しだったかもしれないなぁ」という思いとともに、オフィスの様子が空間として存在します。

この思い浮かべている状態というのが、じつは“何さ”の方向に乗っかっていることで起きているのです。

これが四次元世界の一つのイメージです。

~桜井進「2112年9月3日、ドラえもんは本当に誕生する!」p43,44より抜粋~

 

面白いと思いませんか。

僕はこんなん大好きです。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉があるけど、それと少し似ている気がします。

実在してる今の世界は実は実在していないかもしれないんですよ。つまり。

でも僕がそれを世界と認識しているから世界はある。

僕が幽霊を認めていれば幽霊は存在するし、認めていなければ存在しない。

 

うーん・・・何かこう言ってみたものの、“何さ”の方向とは少し違うのかも。

四次元難しい。

 

でも、とにかく“何さ”の方向によってテレポーテーションが可能になるんだそうで。

タイムマシンじゃなく、テレポーテーション、つまり瞬間移動は可能なんだそうで。

さっきの例でいうと、オフィスを頭に思い浮かべると、そこにオフィスのある空間が存在するのだから、そこに行くこともできるということだと思う。

Ψ(プサイ)というものがあって、それが運んでくれるんだそうだ。

 

 

 

 

よっく分かんねぇーだろー?

 

 

 

 

僕も分からん。

でも科学者ってやつが、もの凄い想像力を持っていることだけは確かだ。

だからそんな人が書いた本は面白い。

それが本当かどうかなんて、僕にとっては実はどうでもよかったりするんだな。

 

僕も四次元についてもっと考えてみよっと。

 

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2007年8月18日 (土)

死に時を探して、僕らは生きる

この前、一人川で釣りをしながら考えたんだ。

生きることについて

そして死ぬことについて

 

僕は前から言ってるけど、人はただ生まれたから生きてる

この考え方に変わりはない。

I was born.

別に生まれたくて生まれてきたわけではない。

何の意思も持たず、ただ受動的に生まれてきた。

誰もがそう。

そして生きる。

そこに目的はない。

ただ受動的に生まれてきたんだから、はじめから生きる意味なんてあるわけない。

 

でも人間はそれじゃ生きられない。

だから何か探す。

夢?

目標?

なんか違う。

夢なんかなくったって、目標なんかなくったって、生きてる人は大勢いる。

 

そう考えながらこの本を読んだ。

 

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本当になるほどと思えた。

この本をヒントに僕はこう考えた。

 

僕らは死に時に死ぬために生きてる

 

僕らはただ生まれたから生きている。

別に生まれたくないのに生まれた。

そして死にたくなくても、やがて死ぬ。

生まれることも死ぬことも避けられない。

 

でも死は操作できる

別に自殺のことをいってるんじゃない。

言い方を変えると、いい死に方をするために生きてるってことかな。

この考え方は自殺も肯定してしまう考え方だからそんな大きな声で言わない方がいいのは分かってるけど、でも死は自分の意思を含んでいていいはずだ

この考えは安楽死を認める考え方。

安楽死は“死に時”をもの凄い考えた方法なんだ。

 

もう辛くて辛くて仕方ない。

十分生きた。

もう死なせてくれ。

 

これが死に時の一つなんだ。

 

重要なのは「十分生きた」と思えること

ただ「辛い」というのは死に時じゃない。

まだ何かできる。

「十分生きた」と心から思えるってことは、生きる気力をいい意味で失う事ができている

だから死に時なんだ。

 

でも場合によっては、ただ「辛い」というだけでも死に時になることもあると思う。

だから僕は自殺をもう簡単に否定できない。

なんとか否定したいところだけど、それはもう難しいんだ。

 

 

 

僕は思う。

死に時まで生きよう。

それがただ受動的に生まれてきた僕が、いい人生を送るってことなんだ。

それがいつか?

そんなの知るかよ。

少なくとも今じゃないし、まだ近くない。

好きなことして、仕事して、生きて、病気とかになって、「もういいか」って思った時。

目安は50歳かな。

50歳以降は体がちゃんと動いてくれるかどうか分からないしね。

事故で障害を負った体になっているかもしれないし、病気にもなってるだろうし。

だからやりたいことは50歳までにやっておこうと思うよ。

もし50歳過ぎてもピンピンしてたら、そこからはおまけの人生だと思えばいいかな。

 

もちろん明日とか来週とかに死ぬ可能性も考えなきゃいけないけど、そこまで考えたら疲れるから、まぁそうなったらドンマイで。

 

 

上で紹介した本はおすすめです。

一回読んでみるといいと思います。

 

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2007年8月 1日 (水)

必要悪ってやつ

不思議な言葉があります。

 

「必要悪」という言葉です。

 

よく政治がらみで聞く言葉ですね。

例えば天下りとか談合とか。

天下りや談合のどこが必要悪なんだよと思いますが、政治家の論理によると必要悪なんだそうです。

 

ここで「必要悪」の意味を調べてみることにします。

 

---------------------------------------------------------------

【必要悪<ひつようあく>】

悪ではあるが、社会の現状からいって、それが(やむを得ず)必要とされるような事柄。

                                    ~広辞苑より~

---------------------------------------------------------------

 

悪ではあるが、必要・・・。

うーん。

なんか納得いきませんね。

必要な悪ってあるのでしょうか。

 

これってこういう状況に似ていませんか?

「本当はしたくないけど、仕方なくする」

こういうこと思うのって結構あることだと思います。

 

「本当はしたくないけど・・・」

これは周囲の状況や他人との関係を無視して、純粋に自分の都合だけで考えれば“したくない”という意味です。

「仕方なくする」は、周囲の状況や他人との関係を考慮した結果、自分の意思には反するけど“する”という意味だと思います。

必要悪の論理ってこれと同じなのではないでしょうか。

 

だったら必要悪って本当は存在しないものです

必要になった時点で、悪は悪ではないのではないか。

必要とされる悪なんて悪とは呼べないと僕は思います。

 

「本当はしたくないけど、仕方なくする」は、色々なことを考慮した結果、最終的には“する”ことが自分にとっても最適であると判断しています。

つまり、最後には自分の感情が“したい”となっている。

純粋に感情だけを見ればそうはなりませんが、よくよく考えれば最終的には“したい”から“する”のです

 

そのように必要悪を考えると、必要とされている悪は、もはや悪ではないことになります。

純粋にそれだけを見れば悪でも、状況によっては必要になる。

正義になるとは言えないとしても、悪は限りなく正義に近づくことができる。

 

結局悪も正義も、捉え方次第ということです

 

でも実はこの“捉え方次第”というのが厄介。

先に「政治家の論理」と言いましたが、論理的であれば悪も必要悪(≒正義)になれる可能性が出てくるのです

論理とは恐ろしいものですね。

 

こう考えると必要悪とはやはり、論理に身を包んだ悪なのかもしれません

裸にすればそれは本当にただの悪でしかないのではないでしょうか。

 

だから僕は必要悪なんてやっぱり認めたくないし、そんな悪でさえ包んで守ってしまう論理を恐ろしく思います。

 

会社でも、同じ意見でもそれが論理的かどうかで評価が全く違います。

僕はどうしても違和感を覚えずにはいられません。

 

 

つま先まで理論武装

何と戦ってるんだか

誰と張り合ってるんだか

     BUMP OF CHICKEN 「レム」

 

 

論理的であることが社会では評価されるみたいだけど、僕はもっと自由気ままに生きたい。

論理とは対極にある矛盾を受け入れて生きていきたい。

 

論理なんてクソ食らえだ!

 

 

政治の生理学―必要悪のアートと論理  

 

 

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2007年4月21日 (土)

男女は平等であるべきではない。対等あるべきなのだ。

近年の社会は男女平等を目指す傾向があると思います。

「女性も社会に出て働くべき」という考えから『男女雇用機会均等法』が生まれ、また、女性だけの職業だった看護婦やスチュワーデスは『看護師』『キャビア・アテンダント』と名称を変えました。

小学校では、男子も女子も「さん付け」で呼ばれるとか。

世間では、男女は平等であるべきという考えがもう普通になっているといえるでしょう。

では、なぜ男女は平等じゃなければならないのでしょうか。

まず『平等』の定義を明らかにしておきましょう。

 

----------------------------------------------------------------

【平等<びょうどう>】

かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと。

                                     ~広辞苑より~

----------------------------------------------------------------

 

これで何となく女性が会社員になりたがる理由が分かります。

男性と同じことをしたいというのが『男女平等』なのです。

同時にこれは少子化の原因も示唆しています。

男性と同じことをしていたら子供は産めませんからね。

 

さて改めまして、男女は平等であるべきでしょうか。

僕の答えは「NO」です。

なぜなら、もともと男と女は違うからです。

女性は男性よりも体格が小さいし、脂肪が多いから体力もない。

女性は妊娠・出産ができるが、男性はできない。

生物学的に見ればもっと多くの違いがあるはずです。

そしてその生物学的(身体的)な違いは必ず生活に現れてくるものだと思います。

だから男女平等なんて始めから実現不可能なのだと思うわけです。

実際、無理矢理男女平等なんてものを実現させようとするから少子化(出生率の低下)などの問題が生まれています。

 

ただこういうと女性をはじめとする一部の人が反発するでしょう。

そこで僕が考えたいのが『平等と対等』の違いです。

専業主婦が何故会社員になりたがったのでしょう。

なぜ男は外で働き、女が内で家庭を守るという形を嫌がったのでしょう。

それは、家事が労働よりも価値が低いとみなされていたからではないでしょうか。

だとしたら、問題はそこにあるのではないでしょうか。

重要なのは、女性を会社で働けるようにすることではなく、いわゆる家事といわゆる労働を、同等の価値とみなすことなのだと思うのです。

 

---------------------------------------------------------------

【対等<たいとう>】

双方の間に優劣・高下のないこと。双方同等であること。対々。

                                    ~広辞苑より~

---------------------------------------------------------------

 

女性が会社で働くこと自体が悪いわけではないと思うのですが、実際の問題として少子化は重要な問題です。

もし女性が会社で働くことでそれが助長されているのであれば、政策レベルで考えなければならないのではないでしょうか。

「人権」という厄介な言葉があるので、声を大にして「女性は家事に徹するべき」などということは言えないでしょう。

政治家がそんなことをいえば“失言”と言われるのは間違いありません。

でもこれは本当にちゃんと考えなければなりません。

人権を守ることがそれほど重要なのか。

確かに女性には「子供を生まない権利」があると思います。

しかし、僕たち人間はそこまで“動物”から脱却しなければならないのでしょうか。

僕は、この人間の考え(人権についてとか)が向かう先は人類の破滅でしかない気がしてしまいます。

まぁ多少大袈裟のような気もしますが・・・。

でも、僕ら「ヒト」も動物であることを思い出すと、やはり僕らには子孫を残す『義務』があると思うんです。

 

これは環境問題と少し似ています。

「子供を生まない権利」を主張することは、今の地球を汚す権利を主張することに似ています。

僕は思うんです。

自分の権利は大事だし、大いに主張するべきだけど、同時に他人の権利も尊重しなければならない。

よく、自分の子供たち、孫たち、その子供たちのために今の地球の環境を残さなければならないということが言われます。

それは、未来の人間たちも僕たちと同じように生きる“権利”があるからです。

これと同じで、僕たちは子孫を残さなければならないんです。

それはやはり、未来の子供たちには、“生まれて、生きる権利”があるからなのです。

 

平等と対等。

今一度考え直してみると、考えが変わることもあるかと思います。

 

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2007年1月 2日 (火)

「社会人」ってやつ

大学4年のこの時期に思うことがあります。

そう、「社会人」という言葉に対する違和感。

会話の中にしょちゅう出てきます。社会人、社会人、社会人・・・。

社会人って何だ?

社会の人?社会に生きる人?

 

 

----------------------------------------------------------------

【社会人<しゃかいじん>】

①社会の一員としての個人。

②実社会で活動する人。

                                     ~広辞苑より~

----------------------------------------------------------------

 

 

「もうすぐ社会人だね!」

この場合の社会人は②の意味なのでしょう。「実社会で活動する人」という。

でも僕は思うわけです。じゃあ学生は社会人じゃないのかって。学校だって社会なんじゃないかって。

確かに、学校はあまあまで、会社員などに比べると生産性もない。でもその現状を受けて「社会人」という言葉を使っていると、いつまでも学生は社会に目を向けないでいいという雰囲気になってしまいます。

この社会人という言葉は学生を甘やかせている言葉だと思うんです。

「俺らはまだ学生。社会人じゃない」

この思いは政治や経済から学生の関心を遠ざけます。ついには日本での出来事を他人事のように見始めます。この風習こそ悪の根源です。

いくら18歳から成人とみなしたところで、この意識が学生にある以上何も変わらないのではないでしょうか。

 

それにしても学生は悔しくないのだろうか。自分たちが社会人とみなされていないことについて。

僕は最近意識的に社会人という言葉を使わないようにしています。悔しいからです。学生なめんなよってことです。

生産性がないという点では確かに社会人とは呼べないかもしれません。あ、いや、僕はバイトをしてるから実社会で生産的な活動をしているといえるはずだ。それに、僕が大学に行く事で生産されるものもあるはず。それは微々たるものかもしれませんが、確実に社会に貢献する活動のはずです。

 

人は一人では生きられないとよくいいます。これはつまり、人は社会の中でしか生きられないということです。そして、社会で生きている以上、社会の中で何らかのものを生み出しているはずです。それが例え小学生でも。それこそ乳児でも。

だから僕は思うんです。

 

人は高校や大学を卒業して社会人になるのではない。

生まれながらにして社会人なんだ。

 

だから、社会人と学生の間に線引きをし、それに甘えたり、見下したり、必要以上に崇める必要はないんだと思います。それこそ僕は、「子供」「大人」という言葉さえいらないと思っているくらいです。

学生はいい加減甘えることをやめ、“社会人”と対等な位置まで行くべきです。

人を甘やかしていいことなんて、あまりないんですから。

 

 

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2006年11月23日 (木)

必死になるな

おはようございます。今日は祝日だそうです。何を祝う日かは知りませんが、祝う日で祝日です。とりあえず祝いましょう。健ちゃんです。

 

 

 

昨日、学校の行き帰りの電車で最近読んでた本を読み終えました。

「孫子の兵法がわかる本」という本です。

社会は戦場だと聞きますし、来年に向けてちょっと気合でも入れるかと思い、立ち読み屋BOOK OFFで購入したのです。

正直この本はそんなに面白くはなかったんですけど、一つ強烈に感心した言葉がありました。

それは・・・

 

「自分が必死になるな、部下を必死にさせよ」

 

という言葉です。

 

僕はフットサルをやっていて、そこでの僕はちょっとリーダー的な役割をしています。

練習を考えたり、指導したり、結構色々やらなければなりません。

そうやって頑張っていると、いつの間にか「必死」になってしまいます。

チームの為と思ってやっていたことが、いつの間にか自分の満足の為にやっていたような気すらしてきます。

さらにその「必死」は冷静な判断を失わせ、目的達成のために必死になっていたはずなのに、いつの間にか最善の策とは程遠い行動を取らせるのです。

そしてタチが悪いことに、必死な自分を肯定しようとします。

「俺は頑張ってる」と。

努力ってのは正しくしないと「悪」にも成り得ることを知っていなければなりません。

 

もしかしたら勝手な解釈なのかもしれませんが、とにかく僕はこの言葉によって、リーダーは必死になってはならないのだと初めて思いました。(もちろん必死が必要な時もあるでしょうけど・・・)

 

ここでいう「部下」は「メンバー」という言葉に置き換えなければなりませんが、このメッセージは僕に「反省」と「新しい考え方」を与えてくれたのです。

あとは僕が考えを行動に移せるかどうか・・・。

 

 

-----------------------------------------------------------------

【必死<ひっし>】

①必ず死ぬこと。生きる見込みのないこと。

②死を決してなすこと。全力を尽くすさま。しにものぐるい。決死。

③将棋で、守りの受け手を打っても詰となるような形。しばり手。「必至」とも書く。

                                      ~広辞苑より~

-----------------------------------------------------------------

 

 

僕は本を読むとき、その本全てを理解する気はあまりありません。

読み終えた時に、内容をあまり覚えていなかったりします。

ただ、知識でも人でも言葉でもイメージでも、何でもいいから、

本の中にたった一つでも良い「出会い」があれば、その本を読んでよかったと思えます。

 

さあ、次はどんな本を読もうか。

 

 

 

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2006年11月13日 (月)

人類みな対等

以前、「尊敬」について書いたことがあると思いますが、つい最近また新しい考えに至りました。 (「尊敬」についての記事はこちら→「尊敬って何?」)

 

 

僕のゼミの先生は言いました。

 

「俺の尊敬する人は、『この人は超えたくない』って人」

 

この言葉を聞いたとき、最初はなるほどなと思いました。

確かに尊敬ってそういうものかもしれないと思いました。

でも最近、僕が誰かをそう思うことはないかもしれないと思うようになりました。

 

それは、僕は全ての人と対等でありたいと思うからです。

 

先生は「越える」という言葉を使いました。

これはつまり、現時点でその人が自分よりも“上”にいることを示しています。

もし対等であれば越えるも何もないはずですから。

 

ただ自分の上に人を置くだけでは大して問題はないと思います。

しかし、自分の上に人を置く人は、自分の下にも人を置く可能性が高いのです。

上司や先輩にヘコヘコする人ほど、部下や後輩に偉そうな態度をとるものです。

自分の上にだけ人を置いて、自分の下には誰もいなくていいなんて考え方をできる人はなかなかいないんです。

たぶん僕もできません。

 

だから僕は誰も尊敬しません。

その代わり、誰も見下しません。

 

 

僕は全ての人と対等です。

 

 

----------------------------------------------------------------

【天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず<てんはひとのうえにひとをつくらずひとのしたにひとをつくらず】

(福沢諭吉「学問のすゝめ」にある言葉)人間は本来平等であって貴賤上下の差別はない。

                                     ~広辞苑より~

----------------------------------------------------------------

 

 

あとは僕が今まで生きてきて知らず知らず身に付いてしまった、上下関係への慣れや無意識的に生まれる差別意識とどう戦えるか・・・・・・・・・です。

本当に完全に全ての人と対等と思ってるかと言われれば、現時点ではハッキリYESとは言えません。

諭吉の名言を肝に銘じて、しっかり意識して生きていきたいと思います。

 

 

 

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2006年11月 8日 (水)

僕たちが音楽を聴けるのは、目が見えるからなのだ

ちょっと自分の中で衝撃的な事を思いついてしまいました。

 

それは駅のホームで電車を待っている時の事でした。

僕の前には盲目のおばさんが並んでいました。

何か棒みたいなのを持ってたから分かったんです。

やがて電車が来ました。

でもその電車は次の次の駅までしか行かない電車なので、この駅から乗る人はあまりいません。

おばさんもその電車に乗りませんでした。

駅員のアナウンスを聞いて、どこ行きの電車が判別したのでしょう。

 

僕はその時イヤホンをして音楽を聴いていました。

だから僕にはアナウンスは聞こえません。

その時僕は思いました。

 

「そうか。僕が今音楽を聞いていられるのは、目が見えるからなんだ」

 

 

普通音楽が聞けない人と言えば、耳の聞こえない人を想像するでしょう。

でも目が見えないと、その分聴覚で補わなければならないことが多い。

だから目が見えない人は音楽を聴くことなんてできないんじゃないかと思ったんです。

ましてや外でイヤホンをしてるなんてあり得ない事でしょう。

 

 

だから、

音楽が大好きな僕は、

耳が聞こえると同時に、

目が見えることに感謝したい。

 

 

 

 

 

 

(注)ここでは「目が見える」とか「耳が聞こえる」などの変な表現を使いましたが、これが一番伝えやすい言葉だと思い、あえて使いました。また、目が見えない方でも音楽を楽しんでいる方がいらっしゃるのはもちろん承知しております。

 

 

 

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発売日:2004/05/26
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著者:田嶌 道生
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